2018年12月31日月曜日

校閲さん、しっかりして! (Proofreaders, Be Careful!)

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『図書』誌 2018 年 12 月号と 2019 年 1 月号の表紙。
Covers of the December 2018 and January 2019 issues of the magazine Tosho.

 岩波書店が発行する月刊 PR 誌『図書』を私は長年愛読している。しかし、その連続する二つの号で、1ヵ所ずつだが、拙い日本語に出会った。各号の記事を全部読んでいるのではないが、このようなまずさに気づいたのは初めての経験である。

 気づいた 1ヵ所目の拙い日本語は、2018 年 12 月号 64 ページの「こぼればなし」と名付けられた編集後記の冒頭にあった次の文である。
年の瀬の慌ただしさのなかで本誌を手にとられていらっしゃる方も多いかと思います。
「とられていらっしゃる」は二重敬語という種類の、敬語の誤用である。

 2ヵ所目の拙い日本語は、2019 年 1 月号 6 ページから始まる磯田道史氏の記事「『伊丹十三選集』刊行に寄せて」中、9 ページ中段から下段にかけての次の文である。
やはり、伊丹さんの好奇心が的を得たところに向かっており、聞き手として非凡なのであろう。
「的を得た」は、しがちな間違いで、「的を射た」が正しい。

 これらが誤植でないとすれば、原文を書いた本人にも責任は当然あるが、校閲段階で容易に発見できるような間違いでもある。『校閲ガール』というシリーズ小説があり、それが 2016 年にテレビドラマ化して放映されたのを見た。校閲とはなかなか大変な仕事のようだが、それだけにやりがいもあろう。校閲の徹底ぶりはその出版社の品格にさえ関わる。「岩波の校閲さん、しっかりして!」といいたい。

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2018年12月24日月曜日

穴蔵生活で越年となる (Life Like Living in a Cellar Continues to the Next Year)

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台風 21 号によるわが家の被害。
Damage to my house by typhoon Jebi.

台風 21 号の被害を受けて

 さる 9 月 4 日の台風 21 号で、わが家も若干の被害を受けた。翌日すぐに、わが家を建てた建設会社(名の知れた一流企業だが、仮に A 社としておく)へ修理の依頼をした。その日は A 社の定休日だったので、東京の同社コールセンターへ連絡したのである。そのようにした場合、普通の修理要請では地域担当の支店から翌日すぐに連絡があったものだが、今回はそれがなかったので、支店にコールセンターへの依頼が伝わっていることを確認する電話をして、修理依頼が混み合っているならば応急措置に来るようにとも頼んでおいた。

隣家の調査ついでに

 9 月 15 日、わが家がたまたま留守にしていた間に、同じ A 社の建てた隣家へ同社から台風被害の調査に来て、隣家の屋根や敷地内からわが家の被害状況も撮影して行ったと、隣家の奥さんから聞いた。あらかじめ連絡もしないで調査に来たとは不手際なことだと思っていたが、最近隣家の奥さんからもう少し詳しく聞いたところでは、隣へ調査に来た人たちはわが家の調査は予定には入れていなかったが、奥さんがわが家も同じ A 社の建築によるもので被害を受けていると話したので、急きょ撮影して行ったのだそうだ。

「物干し用テラス」を「カーポート」と

 隣家へ調査に来た当日の晩だったか、A 社支店から電話があり、隣家からの撮影で調査終了の扱いにしてよいかと尋ねられた。それは、あくまでも初期調査(屋根その他それぞれ専門の業者を詳細調査に差し向けるための前段階の調査)の終了という意味だと思い、OK しておいた。その電話で支店の人は、物干し用テラスの損傷について、「カーポートに穴が空いていますね」といった。物干し用テラスとカーポートでは大違いである。「カーポートでなく物干し用テラスです」と訂正しておいた。そして、外構に属する物干し用テラスの修理費見積もりには、実際、10 月 19 日になってからだったが、詳細調査に来たのである。ただし、その詳細調査が約 1 ヵ月後になるという予告電話が、外構担当の子会社から 9 月 18 日にあった折にも「カーポート」というので、再度訂正しなければならなかった。支店では顧客の指摘による修正をしていなかったのである。

詳細調査なしで見積りへ

 建物本体の詳細調査を待ちわびて過ごしているうちに、 12 月も半ばとなった 15 日、「見積書をお送りします。ただし、なお 1 週間ほどかかります」という旨の電話連絡があった。物干し用テラスをカーポートと見誤ったような調査で見積書作成を進めていることに驚いたが、届いた見積書に不備があれば指摘して調査し直しを求めようと思いながら、何日かを過ごした。しかし、20 日になっても見積書は届かなかったので、あらかじめ分かる不備があれば、早く指摘した方がよいと考え直し、A 社から届いていた「台風災害に関するご相談・補修対応についてのお見舞いとお詫び」というハガキに記載のある支店内災害復興センターへ電話した。ところが、当日同センターは臨時休業中であった。仕方なく同支店の一般補修相談窓口へ電話してみた。そこで調べてもらうと、案の定、樋から雨水を下へ流す垂直の管の 1 本の損傷の写真はないということだった。そういう不完全な見積書では役に立たないから、詳細調査に至急来るようにと要請した。

応急措置も強く要請

 21 日の受付け時間早々に改めて災害復興センターへ電話し、前日に一般補修相談窓口へ伝えた要請に加えて、対応のないままに過ぎている応急措置にも至急来るように要請した。その時に聞き忘れたことがあったので、再度電話し、二つの要請についても繰り返し伝えた。二度目に出た窓口担当者からは、その日のうちに調査担当者から返事するとの回答があった。しばらくしてから 3 度目の電話をして、最初の窓口担当者を呼び出してもらい、先には調査が終わらなければ応急措置はできないといっていたが、A 社としては見積書作成を進めていたのだから、応急措置はすぐにもできるはずで、遅れてしまっている応急措置に即刻来るようにと要求した。このようにして、ようやく 23 日に、詳細調査と遅すぎる応急措置を合わせて行うための、災害復興センター担当社員と下請けの専門家の合計 4 名の来訪があった。

集まりの予約をキャンセルまでして

 この日を逃しては、また何日待たされることになるか分からないので、私は「田辺うたごえ喫茶」の予約をキャンセルして対応したのだった。この催しは、直近の日にキャンセルした場合、次回参加時にキャンセルした回の参加費も合わせて払わなければならないので、23 日に来訪した災害復興センター担当社員に、「今日はキャンセル料の必要な集まりをキャンセルしてまで待っていたことを覚えておいて下さい」と告げておいた。

忙しいからこそ丁寧に

 A 社では約 2000 件の災害復興要請を受けていると聞くが、それだけ多いからこそ、各件に丁寧な対応をしないと、わが家の場合のように、かえって手間がかかってしまうことを肝に銘ずべきである。居住者不在中の隣家からの撮影で詳細調査に替えるなどは、もってのほかである。

わが家の被害状況

 わが家本体の被害は、1. 屋根のスレートの破損 7 ヵ所、2. 雨樋(南側の横と縦の管)の破損、3. 雨戸 1 枚の凹み、4. 壁に何ヵ所かの小さな傷、である。1 についてはシートを掛ける必要があるほどの破損はなく、下地の防水シートが雨漏りは防いでいるということで、応急措置は釘の抜けた穴を塞ぐ程度で済んだ。2 については、雨降り時に穴からまとまって大量に漏れ落ちる水が物干し用テラスの屋根や空調室外機を叩き、あたかも豪雨のような騒音を発して近所迷惑だったが、専門家はテーピングなどで簡単に応急措置をしてくれた。空調室外機は風雨にさらされる仕様になっているとはいえ、大量の雨水が直接当たったのでは故障する可能性があるだろうと、要保冷品が送られてきた大きめの発泡スチロール箱があったのを利用して落下水を受けていた。しかし、それも一夜の雨程度ですぐに一杯になり、雨降り後に毎回空にするのが一苦労だった。

穴蔵生活が続く

 3 の雨戸は、私が 1 日の大半を過ごす書斎のもので、しかも、開ける時に最初に動かすべき 1 枚が動かなくなったのだから、台風以後雨戸を開けられない状態のまま、あたかも穴蔵生活のような日々が続いている。昼間も天井の蛍光灯の点灯が必要であり、南側なので、例年は天気がよければ冬でも午後は暖房は不要なのだが、今年は日差しが遮られたままで、そうは行かない。応急措置として凹んだ雨戸を外してもらおうかとも思ったが、最近は激しい風雨の日もよくあり、雨戸が一部分ない状態にするのは不安で、そのままにしておいてもらった。穴蔵生活での越年となる。


 (2018 年 12 月 26 日、一部修正)。

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2018年12月20日木曜日

「オジマンディアス」の岩波訳と拙訳を比較する (Comparison of Japanese Translations of "Ozymandias" by a Specialist and Me)

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文献 3『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』。
Side-by-Side Translations of Shelley’s Poems (Ref. 3).

はじめに

 先に The Intellectual Devotional(文献 1)でパーシー・ビッシュ・シェリー作の詩「オジマンディアス」を読み、インターネット上にあった和訳(文献 2)の誤りなどに気づき、自ら訳してみたことを記した(こちら)。先日、大阪・梅田に用事があって出かけたついでに、紀伊国屋書店で『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』(文献 3)を見つけて買ってきた。その中にも「オジマンディアス」の和訳があるからである。文献 3 の前書きによると、訳については「様々な先行文献を参照した」とあって、編者自身の訳と言ってよいかどうか分からないので、ここでは文献 3 の出版社の名をとり、「岩波訳」としておく。

 まず、先に掲載した原詩と拙訳、そして岩波訳を記し、そのあとで岩波訳と拙訳の比較を試みる。二つの和訳の相違はそれほど大きなものではなく、比較の論はかなり細かい話になる。しかし、詩人は言葉をよく選ぶものであろうから、その作品を訳すには細心の注意が必要であろう。

 後日の追記:本記事の内容を論文、リポート等の参考にされる方は、必ず本記事を参考文献として引用して下さい。書き方は次の例を参考にして、論文等の体裁に合わせて下さい。
多幡達夫「『オジマンディアス』の岩波訳と拙訳を比較する 」、ブログ "Ted's Coffeehouse 2"(2018年)https://ideaisaac2.blogspot.com/2018/12/comparison-of-japanese-translations-of.html。
 特に学生諸君へ:本記事は英文学が専門の先生方の目にも入っていますので、無断引用があれば、盗用として厳しく減点されることに留意して下さい。


原詩と二つの和訳

 原詩は次の通り(文献 4)。


 拙訳は次の通り。
私は古代に栄えた地から来た旅人に出会った。
その人は言った:胴のない二本の巨大な石の脚が
砂漠に立っている。その近く、砂の上に、
半ばうもれて、砕けた顔があり、その渋面、
しわ寄った唇、そして冷酷に威圧する嘲笑は、
告げている、その彫り師がこうした情感をよく読み取ったことを
その情感はいまも生き延びている、この命のないものに刻まれ、
それを写し彫った手と、それを生んだ心を超えて。
そして台座には、次の言葉がある。
「わが名はオジマンディアス、諸王中の王、
わが業を見よ、汝ら力強い者よ、そして絶望せよ!」
傍には何も残っていない。この巨大な残骸の
断片の周りには、限りなくむなしく
寂しく平坦な砂地が遥か遠くまで広がっている。

 注:13 行目の「むなしく」は、先に掲載した時に「がらんとして」だったが、『広辞苑』(第七版)によれば「がらん」は「一定の空間に何もなく、広くて空虚なさま」(下線は筆者)であり、前にある「限りなく」という空間の形容と合わないので修正した。

 岩波文庫訳(文献 3)は次の通り。
古(いにしえ)の国から来た旅人に会った
彼は言った——「二本の巨大な胴を失った石の脚
沙漠に立ち……その近くに、沙(すな)に
半ば埋(う)もれ崩れた顔が転がり、その渋面
皺(しわ)の寄った唇、冷酷な命令に歪(ゆが)んだ微笑
工人その情念を巧みに読んだことを告げ
表情は今なお生き生きと、命なきものに刻まれながら
その面持(おももち)を嘲笑(わら)い写した匠(たくみ)の手、
   それを養った心臓より生き存(なが)らえて
そして台座には銘が見える。
我が名はオジマンディアス、〈王〉の〈王〉
我が偉勲を見よ、汝ら強き諸侯よ、そして絶望せよ!
他は跡形なし。その巨大な〈遺骸〉の
廃址の周りには、極みなく、草木なく
寂寞たる平らかな沙、渺茫と広がるのみ。」——

訳の比較:前半部

 1 行目、岩波訳では日本語らしく原詩の "I" を省略しているが、拙訳では原詩が英語であることを尊重して、"I" の訳「私は」を入れた。"a traveller from antique land" は岩波訳にある通り、「古(いにしえ)の国から来た旅人」であるが、この表現では、過去から時間を超えやって来た旅人をも想像しかねない。ただし、旅人が語った以下の内容を読めば、その地の現在を見て来た人と分かる。そこで、拙訳では文献 5 の「いにしえに栄えた地から来た旅人」に倣って、「古代に栄えた地から来た旅人」とした。

 2 行目、関係代名詞 "Who" は、岩波訳の「彼は」を誰でも思いがちだろうが、性別が明らかでない who を男性とみなすのは偏見になると考え、拙訳では「その人は」とした。旅人が述べた言葉の引用を示す岩波訳のホリゾンタルバー(——)と始まりのかぎ括弧(そして14 行目の末尾にある終わりのかぎ括弧とホリゾンタルバー)は、同じ目的の記号の重複である(原詩の引用において、岩波の本には「—“ 」と、重複式で始まり、「 ” 」だけで終わる非対称な形をとっている。これは、例えば、文献 6 に見られる表記である。なお、岩波訳 3 行目の「......」も文献 6 に見られるものである)。他方、拙訳のコロンでは引用の終わりが不明瞭だが、上掲の原詩(文献 4)の形を尊重した。

 同じく 2 行目、"Two vast and trunkless legs of stone" を「二本の巨大な胴を失った石の脚」とした岩波訳では、「脚」に至って初めて、「二本の」、「巨大な」、「胴を失った」のいずれもが「脚」を形容していると分かる。「巨大な胴」とつながっていると思われないように、原詩の "and" を生かして、「二本の巨大で胴を失った石の脚」とする方がよいと思われる。拙訳では形容関係を分かりやすくするため、あえて語順を変え、「胴のない二本の巨大な石の脚」とした。

 4 行目、"sneer of cold command" の "command" を岩波訳は普通名詞の「命令」と解釈しているが、冠詞がついていないところを見ると、"control" と同義の抽象名詞と見るのがよいと思われる。そこで、拙訳は "of" 以下を「冷酷な制御の」つまり「冷酷に威圧する(ような)」という形容句と考えた。"sneer" は「冷笑」という意味だが、これを使うと「冷」が重なるためか、岩波訳では「微笑」としたが、結果的に「冷酷」を半ば打ち消している。拙訳では「嘲笑」を使い、そうなることを避けた。

 6 行目、"sculptor" を岩波訳は「工人」とした。『広辞苑』(第七版)によれば、工人とは「中国で、労働者のこと」と説明されており、これでは "sculptor" の意味が出ない。拙訳の「彫り師」は、文献 2 の「彫師たち」を参考にしたが、原詩では単数形であり、誤りを正して使った。

 同じく 6 行目、"passions" を岩波訳は「情念」とし、拙訳は「情感」とした。Random House English–Japanese Dictionary に "passion" の複数形用法の訳語として「情感」が「感情」と並んで記されていて、この両者はほとんど同義であり、内容的には熱い心から冷たい心まで、いずれにも当てはまる中立的な言葉である。他方「情念」は、『岩波国語辞典』(第五版)の説明が「心にわき、つきまとう感じと思い」と分かりやすく述べているように、感情を表す言葉としては、ねばねばした、あるいは熱いものを連想させる傾きがある。したがって、「情念」はこの彫像の顔の冷酷さとはいささか相いれないように思われる。

 7 行目、"Which" は前行の "passions" を受けており、8 行目の "them"、そして同行目末尾に省略されている目的語も "passions" である(文献 7 の Note 6)。岩波訳は前二者を「表情は」、「その面持(おももち)を」と表現を変えているが、拙訳では「その情感は」と、これを受けた「それを」を使い、「情感」という解釈で通した。この相違が "the heart that fed" の訳の相違につながる。岩波訳では「[その面持を]養った心臓」となり、拙訳では「[その情感を]を生んだ心」となる。なお、岩波訳では 8 行目の "mocked" に「imitated と derided と二つの意味がかけてある」(同訳の脚注)として、「嘲笑(わら)い写した」と二つの動詞を使って訳している。私はそこまでは気づかなかった。「戯画」という言葉があるが、「戯彫刻」あるいは「戯刻」という成語があれば、「戯刻した」と一つの動詞で表せるのだが。

訳の比較:後半部

 10 行目、"king of kings" は岩波の本や文献 6 の原詩の表記では "King of Kings" と大文字で始まっており、岩波訳の「〈王〉」の山かっこはこれに対応させたものであろう(同じ山かっこの使用が 13 行目に原詩の同上表記に大文字で "Wreck" と始まっている語の訳にも見られる)。拙訳では "of kings" に複数形が使われていることを尊重した。なお、岩波訳では台座の銘が 10、11 行目の 2 行であることが分かりにくい。

 12 行目、"Nothing beside" について、岩波訳は beside が Nothing を形容していると捉えたが、拙訳では文献 7 の Note 12 に シェリーの原稿に "No thing remains beside." となっている、とあるのを参考にした。

 12 行目の岩波訳にある「草木なく」について言えば、草木のないのは確かに "bare" であるが、"bare" は草木がないだけに限らないであろう。この懸念を避けるには「草木もなく」とする手もあろうが、「草木」という具体的な名詞がいったん提示されると、砂漠にありそうなわずかの草木が脳裏に浮かび、「なく」と否定されても、残像のように脳裏に残って、完全には消し難いという欠点がある。拙訳の「むなしく」は、オジマンディアス像の残骸以外には草木はおろか何の跡形もないことを簡潔に表している。

むすび

 以上、岩波訳と拙訳を比較して、拙訳に多くの点で長所があることを述べた。英文学者でもない私であるが、理系研究者として論文を書く際の一つの重要な心構えに、自分の考えが正しいはずという根拠があれば、たとえ従来の考えと異なっていても、それを気後れすることなく述べるべきだということがあるのを実践したまでである。

文 献
  1. D. S. Kidder and N. D. Oppenheim, The Intellectual Devotional: Revive Your Mind, Complete Your Education, and Roam Confidently with the Cultured Class (Rodale, New York, 2006).
  2. 壺齋散人(引地博信)「オジマンディアス OZYMANDIAS」
    https://poetry.hix05.com/Shelley/shelley02.ozymandias.html)。
    「『オジマンディアス』とは、古代エジプト王ラムセス 2 世のこと【タイトルの意味】」
    http://breakingbadfan.jp/trivia/cranston-ozymandias/)にも引用されている。
    後日の追記:ただし、上記の壺齋散人氏による文献は原詩の句読点を全く無視しているなどの欠点があり、参考にされないことを望む。この点については、2020 年 10 月 27 日付けの匿名さんのコメントでご指摘いただいた。
  3. アルヴィ宮本なほ子編『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』(岩波文庫、2013)。
  4. Percy Bysshe Shelley, "Ozymandias" in Miscellaneous and Posthumous Poems of Percy Bysshe Shelley (W. Benbow, London, 1826) p. 100
    (https://play.google.com/books/reader?id=MZY9AAAAYAAJ&printsec=frontcover&output=reader&hl=en&pg=GBS.PA100).
  5. 岡村眞紀子訳「オジマンディアス」、武田雅子「英詩入門―いろいろな詩の技法―」
    https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181116195723.pdf?id=ART0009622599)中に引用。
  6. "Ozymandias By Percy Bysshe Shelley", Source: Shelley’s Poetry and Prose (1977). Poetry Foundation (https://www.poetryfoundation.org/poems/46565/ozymandias).
  7. "Ozymandias" (http://rpo.library.utoronto.ca/poems/ozymandias), in Representative Poetry Online.


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2018年12月18日火曜日

2018 年 12 月の「みんなで歌う音楽会」 ("Concert to Sing Together" in December 2018)

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「みんなで歌う音楽会」のチラシから。
From a flyer of "Concert to Sing Together".

 岸和田での「みんなで歌う音楽会」2018 年 12 月分は、さる16日(日)に開催された。私よりいくらか年長かと思われる女性が初参加していたが、面白い発言をしてよく笑う常連の女性がお休みで、参加者はやはり 10 名だった。

 私は前半と後半に各 4 曲をリクェストした。後半のリクェストは後回しになっていたが、時間を少しオーバーして結局全部採用された。「寒い朝」で始まり、「今日の日はさようなら」で終わり、どちらも私のリクェスト曲という形になった。古い歌では、母が歌っていたので覚えた「箱根八里」をリクェストした。これら以外の私のリクェスト曲は下記の通り。
  • 白い想い出
  • 雪の降る街を
  • トロイカ
  • 夜明けのうた
  • 波浮の港

 他の参加者のリクェスト曲「ペチカ」を歌うときに、主催者の喜多さんが、どこかの会場でロシアから来日して滞在している若い女性の参加があり、ペチカについて教えてもらったこと、それは多機能エネルギー源とでも呼ぶべきようなものであること、「トロイカ」はロシアではもう古い歌で、彼女はそれを知らなかったこと、などを話されたのが面白かった。

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2018年12月14日金曜日

もう一つのみんなで歌う催し (Another Series of Events to Sing Together)

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2018 年 10、11 月分「田辺うたごえ喫茶」の会場風景。田辺寄席ニュース『寄合酒』Nos. 752、754 から転載。どちらにも筆者が小さく写っている。
Snapshots of "Tanabe Utagoe Cafe"; reproduced from The Tanabe Yose Newsletter Nos. 752 and 754.

 先に岸和田での「みんなで歌う音楽会」に参加していることを書いた(こちら)。実は、さる 10 月から、もう一つのみんなで歌う催しに参加している。その催しは「田辺うたごえ喫茶」という名称で、大阪市阿倍野区の桃ヶ池公園市民活動センターで毎月 1 回開催されている。200 名近く入る会場が毎回ほとんど満席で、会員制ながら、次回の参加をあらかじめ予約しておく必要がある。

 同じセンターで開催されている田辺寄席のニュース『寄合酒』の中に、この催しの前回のリクェスト曲一覧、リクェストカードにあったコメント一覧、会場風景写真多数、「今月の歌」のプリントの縮小版、参加者の感想、今後の日程などがプリントされて、毎月送られてくる。私は 11 月に 2 回目の参加をした後、参加者に毎回配られる感想送付用ハガキに、参加することになった経緯を記して送っておいた。それが 12 月 6 日発行の『寄合酒』No. 754 に掲載されたので、ここに引用する[注 1]
 ピアノの喜多氏が岸和田で主催されている「うたごえ」の会で、氏の 10 月分活動リストをもらいました。その中に「桃ヶ池センター」があり、岸和田の会と同様のものと思って来てみたところ、主催者は別、参加者が大勢で、驚きました。間違えての参加から、こちらへの参加も決めた私は、「旅の夜風」以前に生まれた一人です。どうぞよろしくお願いします。

 「旅の夜風」は作詞・西條八十、作曲・万城目正で昭和 13 (1938)年にできた、♪ 花も嵐も踏み越えて/行くが男の生きる途 ♪ と始まる歌で、11 月の会でリクェストされた曲の一つである。これを歌う前に司会者兼歌のリーダーが、「この歌ができた時にすでに生まれていた人はいますか」と尋ねて、私を含む数名が手を挙げたことから、投稿者が高齢であることの表現に利用した。投稿には、投稿者の大まかな住所と氏名(希望によって、姓名、姓のみ、または頭文字)が記される。堺市でも旧市内の南端から参加している私は、遠くからの参加者だろうと思っていたが、もっと南の泉大津市や岸和田市からの参加者もいると知った。

 私が初参加の時は予約なしで行ったのだが、たまたま空きができていたようで、幸いにも入れてもらえた。この「うたごえ喫茶」に入会(入会金は不要)すると、これまでに出された歌集(A4 版 各20 ページ前後)8 冊と「歌集総目次」をもらえる。1 回の参加費は 1000 円で、飲み物とつまみ付きである。 この催しは 2013 年 4 月に 30 年ぶりに復活してから目下 6 年目で、11 月の会は「復活・第 67 回」であった。この時、参加者数がのべ 1 万人を超え、1 万人目に当たった女性に感謝状と 1 年間無料招待券が贈られた。

 NHK テレビで紹介されたことがあり、その後参加者が急増したと聞く。『産経ニュース』にも取り上げられている(「 『歌声喫茶』多様化で脚光 "70 代の青春" 輝き放つ」、2017 年 8 月 23 日付け)。なお、ニュース『寄合酒』に場を貸しているような「田辺寄席」の方が、旧「田辺うたごえ喫茶」から 44 年前に生まれたものだそうである。


 
  1. プリントされたバージョンでは、3 カ所ほど原稿に手が加えられていた。それらの変更は事実と異なるようなものだったので、ここでは原稿通りに戻して引用する。

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2018年12月12日水曜日

お悔やみ状を 2 通書く (Wrote Two Letters of Condolence)

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わが家の庭のネリネ。2018 年 12 月 12 日撮影。
Flowers of spider lily in our yard; taken on December 12, 2018.

お悔やみ状を 2 通書く

 お悔やみ状中の亡くなった方がたの思い出を記した部分は、私の目に映り心に残ってきたものという意味で、私の人生の一断面でもある。以下は、きょう発送したお悔やみ状からの引用である。

 T・S 君宛
 ご母堂様には高校生時代に大桑町のお宅でお目にかかって以来つい十年余り前まで、お会いして常に優しく接していただき、友人たちの母上方の中で最も印象深いお方でございました。105 歳と申しますと、石川県では数少ないほどのご高齢でいらっしゃったのではないでしょうか。

 S・K 君夫人宛
 S 君とは、私が石引小学校へ 5 年生の 3 学期に転校してから、6 年生の時と合わせて、1 年あまり同じクラスでした。県下で一、二を争った野球部の名捕手として、ホームベースの後ろから大声で内・外野手を元気づけておられた姿が、いまでも目に浮かびます。中学・高校も同じながら、クラスが一緒になったことはありませんでしたが、長身を生かしてバスケットボール部でご活躍された様子を頼もしく拝見しておりました。ごく近年まで、石引小 6 年生のクラス担任・荒間先生を囲む同窓会のお世話をされ、その会場では、いつも巧みに場を盛り上げて下さっていました。

 お悔やみ状には書かなかった S・K 君の思い出を付け加えておきたい。私が大連から引き揚げてきて、金沢の石引小学校(現・小立野小学校の一つの前身)で彼と同じクラスになった時、彼はすでに「マツ」というあだ名で呼ばれていた。名前に「松」がついているのでもなく、どうして「マツ」なのか不思議だったが、ある時一人の級友が次のように教えてくれた。

 S・K 君は、金沢の近くの松任(まっとう)という地の名物であるあんころ餅が大好きで、級友たちと松任へ行った折に、それを買ってたくさん食べた(かつては北陸線の松任駅において、駅弁スタイルで売っていたので、それを買ったものと思われる)。そこで、「松任のあんころ餅」を縮めた「マツ」が彼のあだ名になったのだと。そういえば、彼はまれに「あんころ」とも呼ばれていたが、彼の旧姓は「あ」で始まっていたので、こちらはそれほど不思議にも思わなかった。二つのあだ名は同じ由来のものだったのである。ちなみに、あんころ餅の老舗「圓八(えんぱち)」の「あんころ餅」昔話がこちらにある。

 上の引用文中にある荒間先生は一昨年亡くなられた。そのことを私は昨年になって知り、S・K 君に電話してお葬式の様子などを聞いた。それが彼と話した最後となった。その電話では、足腰が痛んで歩けないといってはいたが、声はまだ元気そうだったのに、彼の最期は意外に早く、この 12 月に訪れた。

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2018年12月6日木曜日

ツイッターでの再会、そのファインマンとの関係 (Reunion via Twitter and Its Relationship with Feynman)

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私がロブに送った手紙の封筒と同封した「トゥヴァ友の会」のニュース紙。
The envelope of a letter I sent to Rob and the newsletter of "Friends of Tuva Japan" enclosed in it.

 ロブ・ウェイドとは、かつてメールを何回か交換した。その後、彼の名をツイッターで見つけて、フォローしておいたのも、もう何年も前のことである。しかし、彼はツイッターを当時あまり使っていなかったようで、フォローバックがなかった。最近になってようやくフォローバックがあって、むしろ驚いた。彼はツイッターのダイレクト・メールを使って、私が以前彼に送った手紙をまだ持っているといって、その写真(上掲)を送ってくれた。航空便を送ったことは全く覚えていなかった。その頃から、もう 20 数年も経ったのである。

 ロブとのメール交換の主な内容は、ラルフ・レイトン著 Tuva or Bust!: Richard Feynman's Last Journey(大貫昌子による和訳書の題名は『ファインマンさん最後の冒険』)の題名の由来を教えてもらったことである。それは 1990 年代半ばで、ノーベル賞物理学者リチャード・ファインマンの没後まだ 7、8 年だった。この本は、ファインマンが一市民としてトゥヴァという国を訪れてみたいと、レイトンとともに画策する話を記したものである。

 レイトンはこれにちなんで、ファインマンとトゥヴァのファン・クラブ "Friends of Tuva" を立ち上げていた。大阪在住の若い女性・法貴亜古さんがその日本版「トゥヴァ友の会」を作り、私もその一メンバーだった。そして、私は「トゥヴァ友の会」のニュース紙『のるかそるか通信』に、ファインマンについてのエッセイを連載していた。ロブが書き送ってくれた "Tuva or Bust!" の由来は、和訳してそのエッセイの中で紹介した。私がロブに送った手紙は『のるかそるか通信』のそのエッセイを掲載した号を同封したものだったのである。

 私自身は長らく保存してあった『のるかそるか通信』を 2、3 年前に処分してしまったが、同紙に寄稿していた 2 シリーズのエッセイ『ファインマンさんと私の無関係な関係』『いつでもどこでもファインマンさん』はホームページに掲載してあり、その英語版を 2009 年に作った自費出版書 Passage through Spacetime に収めた。したがって、この本には、ロブの "Tuva or Bust!" の由来を説明した原文が載っているのである。今回、彼の住所を聞いて(以前のヴァージニア州からワシントン州へ変わっていた)、ようやくその本を彼に贈ることができた。

 私がロブを知った経緯をここに書こうとしたが、思い出せなくて、パソコン上にある過去のメールをたどろうとしてみた。しかし、それはなかなか手間がかかりそうである。ロブの文を紹介したエッセイに手がかりはないかと、『いつでもどこでもファインマンさん』を見ると、そこに次のように簡潔に記してあった。
 […]Friends of Tuva のホームページへのアクセス方法を試みようとして、うまく行かなかったおかげで、"The Tuvan Hillbillys site" と称するページの作者 Robert M. Wade 氏(愛称 Robb)と email で話し合う間柄となった。『ファインマンさんと私の無関係な関係』の冒頭の一章の英訳を送った相手の一人は彼である。
これによれば、写真にある手紙の前にも、私は彼に手紙を送っていたようである。このあとに、ロブがトゥヴァやファインマンに興味を持った経過を含む、当時の彼のプロフィールも書いてある。
 Robb は 1990 年から 1992 年までモスクワに住み、アメリカ大使館付きの塗装家として働いていた。そこで一緒に働いていたアメリカ人の親友の一人が、モスクワへ来る前に彼の友人から Tuva or Bust! の本をもらい、ロシアに住んでいる間にぜひそこを訪れるべきだといわれて来たという。Robb もそれを借りて読み、すぐにトゥヴァにとりつかれた。
 Robb の友人は著者の Ralph Leighton に手紙を書き、トゥヴァに住む婦人 Rada Chakir の電話番号を教えてもらった。彼女の助けで、Robb とその友人がモスクワからトゥヴァへの困難な旅程をこなしてキジルに着いたとき、幸運にも第 2 回国際ホーメイ・シンポジウムが進行中で、Rada が最終公演のチケットを手配してくれた。彼らは伝統的な相撲の競技や、美しい自然の光景も見物した。
 この旅行でパラダイスを見た Robb は、それからの人生が変わってしまった。アメリカへ帰ってから大学へ戻り、ロシア語で学士号をとり、"Animal Imagery in the Tuvan Shamanic Healing" のテーマで修士論文を書いた。ファインマンさんに関する興味は Tuva or Bust! から始まったのだが、その後ファインマンさんの他の本も読み、金庫破りの話をとくに好んでいるとのことである。

 当時、ロブは修士課程を終えたばかりで独身だったと思われるが、まもなく結婚して息子をもうけたようである。来年、息子が 21 歳になるのを記念して日本へ旅行に来るという。大阪へ寄るならぜひ会いたいと書き送った。

 たまたま昨日、ファインマンについてのニューヨーク・タイムズ紙の記事が目にとまった["Rough Drafts of Richard Feynman’s Ideas Head to Auction(リチャード・ファインマンのアイデアの下書きがオークションに)"]。 この記事の著者 Kenneth Chang は「ファインマンは賢明だったが、完ぺきではなかった。オークションにかけられる論文の下書きを見ると、このことが明らかになる」と書いている。オークション主催者による関連 Web ページは "History of Science & Technology, Including the Nobel Prize and Papers of Richard P. Feynman"

 また、今年の 5 月 11、12 日にはファインマンの生誕 100 年を記念して、Caltech と PMA が盛大な記念行事 "Feynman 100" を行った(リンク先で講演のビデオなどを見ることができる)。Paul Halpern が Nature に掲載した "Richard Feynman at 100"、Melinda Baldwin の "Feynman the joker"、Tony Hey の "A Hundred Years of Richard Feynman"、Rob Lea の "Richard Feynman: the genius of simplicity"、Royal Holloway University of London の "Celebrating 100 years from the birth of Richard Feynman in Tuva" などの生誕 100 年記念記事もインターネット上で読める。American Association of Physics Teachers は "Celebrating Richard P. Feynman's 100th Birthday on May 11, 2018" と題するウェブページに同会の発行する雑誌に掲載されたファインマンの論文やファインマンの研究成果を紹介した他の研究者の論文を集めている。——ファインマンの話題を探し始めると、その仕事は尽きることがない。

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2018年12月3日月曜日

ソーニャ・カトーが加藤周一を記す (Sonja Kato-Mailath-Pokorny Wrote about Shuichi Kato)

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わが家のイロハモミジ。2018 年 12 月 2 日撮影。
Japanese maple in our yard; taken on December 2, 2018.

ソーニャ・カトーが加藤周一を記す

 『図書』誌 2018 年 12 月号に「夕陽妄語 Närrische Gedanken am Abend」と題する文がある。文頭に
 加藤周一。世界中の多くの人々にとって彼は先生であり模範であった。私にとってもそうであったが、
とある。これは全く同感である。「夕陽妄語」とは加藤が朝日新聞夕刊に月 1 回連載していた評論的エッセイの題名で、私はそこから学ぶことが多く、新聞で読んだあと、単行本で出版されたのを必ず買ってまた読んだ。読み終えて不要になった本を少しずつ処分している昨今であるが、『夕陽妄語』全 8 巻はいまも書棚にある(その後、朝日選書ちくま文庫としても出版された)。

 その次を読んで驚いた。
しかし何よりもまず自分の父であった。
とあるのだ。

 初めに注意して見なかった著者の名を改めて見ると、「ソーニャ・カトー」となっている。彼女は最初の章「ウィーンでの始まり」において、ウィーンで生まれた自分が生後数週間の時、周一とその妻・ヒルダに養子として引き取られたことを記している。彼女はヒルダとともにウィーンに住んで成長し、日本語ができないという。

 「おや?」と思って、ふたたび著者名のところを見ると、横に「翻訳・高次 裕」とある。訳者はドイツ文学・思想の研究者であることが文末の括弧書きから分かる。原文はドイツ語だったのである。その題名も "Närrische Gedanken am Abend" というドイツ語だったのを、訳者はあえてそのまま残したと思われる。このドイツ語を逐語的に直訳すると、「夕べの奇矯な意見」となる。まさに「夕陽妄語」であり、ソーニャは周一から彼のエッセイの題名をドイツ語で聞いていたのだろう。

 私が特に紹介したいのはソーニャの文の第 3 章「ホモ・ポリティクス——政治の人カトー」に記されている加藤周一の「九条の会」への関わりである。少し長い引用をしておきたい。
 [...]「九条の会」は、憲法第九条を含む憲法を守りたい、そして世界平和の模範でありたいという意識を持った日本人たちへのアピールであった。[...]
 平和を訴える者として、父は文章を書いたり、催しに参加したり、政治集会で講演したりした。この問題ほど父が政治的な活動に関わったことは、彼の人生において他に無かったと思う。特定の政党や特定の政治家のためということではなく、ひとえに平和を守ることこそが、父の目から見て本当に価値のあることだったのだ。
 今、行く先の不明瞭な政治的状況がある。[...]
 平和活動は、流行りでないように見える。[...]父の没後 10 年、そして 2019 年の生誕 100 年の前年にして、この困った状況である。父と同様の精神でもって平和活動を続ける人がいるだろうか。私はそうした人物の登場を待ち侘びている。

 私は「九条の会」を地域や職場で支える 7500 を超える会の一つ「福泉・鳳地域『憲法9条の会』」の活動に参加してきた。これにも加藤周一の影響があった。私自身の高齢化のため、同会代表の役をさる 3 月末に辞任したが、代わって代表になってもらえるより若い人がまだ見つからなくて、「代表代行」を務めている。まさに私も、加藤周一と同様の精神で平和活動を続ける、地域の若い人の登場を待ちわびているところである。

 上の引用文にあるソーニャの危惧は、彼女が 3 年前に立命館大学と共同でウィーンに創設したという「ソーニャ&加藤周一・若手研究者育成プログラム」の活動から生まれたものと思われるが、日本の情勢の把握がまことに的確で、久しぶりに加藤周一の「夕陽妄語」を読む思いがした。

 ソーニャの本文中には特に説明がないが、「孫のマティアス=シュウイチをあやす父」という説明書きのある小さな写真が掲載されている(まだ生まれて間もない孫は母・ソーニャに抱かれている)。そこに写っている周一は、ソーニャが文末で述べている通り、「知識に溢れ、[...]愛に溢れ、好奇心に溢れ、そして平和への献身に溢れた人」の優しく理知的な顔をしている。なお、ソーニャは 2016 年 5 月 7 日、立命館大学における「加藤周一文庫」創設を記念した講演会に来日し、父親の思い出を語っている(毎日新聞の記事)。

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2018年11月30日金曜日

太宰治の太平洋戦争開戦時の短編 (Osamu Dazai's Nobellas at the Beginning of the Pacific War)

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秋色に染まった堺市・八田荘公園。2018 年 11 月 18 日撮影。
Hattashō Park, Sakai, filled with autumn colors; taken on November 18, 2018.

太宰治の太平洋戦争開戦時の短編

 先の記事に太宰治著『ろまん燈籠』を買って読んだ理由を記した。今回は、その本に収められている「ろまん燈籠」以外の短編、特にその中の 2 編について感想を述べる。

 「ろまん燈籠」以外の短編は全部で 15 編収められている。平均約 15 ページの、ごく短いものばかりで、就寝前あるいは気分転換のひとときに 1 編ずつ読むのに誠に格好の作品たちである。内容も深く考えないで楽しめる。しかし、「新郎」以下の 10 編は太平洋戦争中の作品であり、それを思うと、私には気軽には読めなかった。

 中でも、「新郎」と次の「十二月八日」は、まさにわが国が太平洋戦争を始めた日のことを主題にしている。前者[「(昭和十六年十二月八日之を記せり。この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。)」という後書きがある]は、その日の夫の、後者はその日の妻の、心情をつづった形を取っている。間もなく、その日から 77 年目の日を迎えようとしている。わが国が狂った一歩を決定的に歩みだしたその日を、この作家はどのように見ていたのだろうか。

 太宰のこれらの短編をいま私たちが読むと、戦争への抵抗がいかにも弱く感じられる。しかし、表現の自由が抑圧されていた時代の作品であることに留意しなければならない。太宰は「新郎」の冒頭に、「一日一日をたっぷりと生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。...」と聖書の言葉を引き、末尾に「ああ、このごろ私は毎日、新郎(はなむこ)の心で生きている」と記す。主人公の「私」は太宰自身のような作家である。

 巻末の奥野健男の解説によれば、この作品は日本が滅亡の道を選んだことを太宰が「深層意識的に認識していた」と推察させるという。そう思ってこの作品の上記の言葉を読み返すと、「深層意識」よりももっとはっきり認識した上で、最大限に可能な抵抗の文を記したとさえ受け取ることができる。

 短編「十二月八日」は、小説家の妻である「私」が「きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう」として、筆をとる形で展開する。「私」は早朝、開戦を伝えるラジオの放送を聞き、朝食時に夫に向かって「日本は、本当に大丈夫でしょうか」と尋ねる。ここに太宰は自分の気持ちを表した上で、「私」をすぐに戦争への協力者に仕立てて行く。

 表面的に読めば、これは戦争賛美作品のようである。しかし、「私」の態度はいかにも浮ついたものに戯画化されて描かれている。そして、泰然としている夫は、終わり近くで「お前たちには、信仰心が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ」と、「私」の姿勢を批判するような言葉を投げかけている。奥野の解説には、花田清輝らが戦後『日本抵抗文学選』(発行は 1955 年)に「十二月八日」を選んだとある。

 いま、わが国を 77 年前に似た狂った道へ導こうとしている政治家が、平和憲法を変えるために躍起になっている。私たちは表現の自由を駆使して、これに力強く対抗しなければならない。

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2018年11月29日木曜日

『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』を原書で読む:「オジマンディアス」2 (The Intellectual Devotional: "Ozymandias" -2-)

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ルクソールのラムセス記念寺院にあるラムセス 2 世の崩壊した巨像。
Fallen colossus of Ramesses II; Ramesseum, Luxor. Photo taken by Hajor (GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 1.0), from Wikimedia Commons.

 今年 1 月、80 トンのラムセス 2 世像が、建設中の大エジプト博物館へ引っ越したという記事があった(文献 7)。その記事の末尾近くに、シェリーの名高いソネット「オジマンディアス」にインスピレーションを与えたとされる巨大なラムセス 2 世像の一部は、1817 年に出土したもので、現在は大英博物館にある旨が記されている。

 大英博物館にあるその像の一部という写真をインターネットで検索すると、大英博物館の記事(文献 8)が見つかった。そこにある写真に写っているのは、シェリーの詩から想像される砕けて醜い顔ではなく、端正な顔つきの若い王の、"Younger Memnon" と呼ばれている胸像である[下の写真参照(同じ胸像を撮ったものを Wikimedia Commons から引用)]。文献 8 にも、この頭部がイギリスに到着したことがシェリーに「オジマンディアス」を書かせたとある。シェリーのオジマンディアス像の描写は全く創造的なものだったのだろうか。


大英博物館にあるラムセス 2 世の巨大な胸像
Colossal bust of Ramesses II, the 'Younger Memnon' in British Museum. Photo taken by Jon Bodsworth [Public domain], from Wikimedia Commons.

 文献 8 には、"Younger Memnon" はジョヴァンニ・ベルツォーニ(Giovanni Battista Belzoni)によって、1816 年にテーベのラムセス 2 世記念寺院(the mortuary temple of Ramesses or Ramesseum)から取り出されたとある(上に紹介した文献 7 の記述は 1 年異なる)。より詳しく知りたいと思い、これらの名称についての説明を Wikipedia でたどると、文献 9 に行き着いた。そこには、シェリーがこの詩を書いた動機がもっと詳しく述べられている。

 シェリーの詩の背景には、"Younger Memnon" のイギリス到着の興奮の他に、移動がもっと困難でいまなお砂漠中に放置されている巨大な遺物(本記事トップの写真中、倒れている方の像。文献 9 の写真説明は「オジマンディアスの巨像」)についての話を聞いたということもあったそうだ。文献 9 はさらに、詩中の「胴のない二本の巨大な石の脚」という記述は考古学的正確さというよりも詩的表現であるが、「半ばうもれて、砕けた顔」が砂の上にあるという部分は壊れた像の正確な表現である、と述べている。

 ここまで知って、The Intellectual Devotional の "Ozymandias" のページをもう一度見た。このページを最初に読んだのは 3 週間ほど前のことだったので忘れていたが、ページ末尾に小さい活字で「追加の事実」として、シェリーにこの詩のインスピレーションを与えたのは、ラムセス 2 世記念寺院にある倒壊した像(a fallen statue at the funerary temple of Ramses II)だと書いてある。これだけでは、その像が現在大英博物館にあるものか、いまなお現地に放置されているものかがはっきりしないが、むしろ後者を想起させる。シェリーの詩と「ラムセス 2 世像」の事実関係は、多分、文献 9 にある通りで、大英博物館の記事は、やや我田引水的に、博物館にある像との関係のみを強調して書いてあるのだろう。気になったことを調べていくと、意外な事実を知り得るものである。

文 献
  1. "3,000-Year-Old Colossal Pharaoh Statue Moved to New Home"
    (https://news.nationalgeographic.com/2018/01/colossus-ramses-statue-move-cairo-egypt-museum/), National Geographic, Jan. 25, 2018.
  2. "Statue of Ramesses II, the 'Younger Memnon' "
    (https://britishmuseum.tumblr.com/post/125844964332/statue-of-ramesses-ii-the-younger-memnon), a Web page of British Museum.
  3. "Excavation and studies" (https://en.wikipedia.org/wiki/Ramesseum#Excavation_and_studies), a section of "Ramesseum" in Wikipedia. See especially the third paragraph.

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2018年11月28日水曜日

『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』を原書で読む:「オジマンディアス」1 (The Intellectual Devotional: "Ozymandias" -1-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


パーシー・ビッシュ・シェリー「オジマンディアス」の原詩。
Percy Bysshe Shelley, "Ozymandias", taken from Ref. 3.

 デイヴィッド・S・キダー、ノア・D・オッペンハイム・著、小林朋則・訳『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』(文響社、2018)の原書、The Intellectual Devotional: Revive Your Mind, Complete Your Education, and Roam Confidently with the Cultured Class (Rodale, 2006) を読んでいることは先の記事に記した。本記事では、その 65 ページにある "Ozymandias"(オジマンディアス)について紹介する。

 ページ冒頭には 14 行詩(sonnet)が掲載されている。"Ozymandias" は、ここではイギリスのロマン派詩人の主な一人であるパーシー・ビッシュ・シェリー(1792–1822)が 1818 年に詠んだ詩のことである。その詩はエジプトの砂漠の中で廃墟となったオジマンディアス王(ラムセス 2 世のギリシャ名)の像について述べている。

 詩の中で使われている単語はやさしい。しかし、さっと読んだだけでは、どれだけよく理解できているか不安である。そこで、インターネットで和訳を探して見つけたのが文献 1 である。

 文献 1 の訳を注意して読んでみると、行き過ぎた意訳をしたために意味上の主語が何かが分かりにくくなっているところがあり、複数箇所に誤訳もあると気づき、私は自分で訳を試みた。その後、より信頼できる岡村眞紀子訳(文献 2)を見つけて、それを参考に私の訳を部分的に修正した。しかし、私には岡村訳も完全によいとは思えなくて、ここに自訳を紹介することにした。訳にあたって、引用符や句読点は The Intellectual Devotional の表記でなく、文献 3 にあるスタイル(上掲のイメージ)に近いものにした。
私は古代に栄えた地から来た旅人に出会った。
その人は言った:胴のない二本の巨大な石の脚が
砂漠に立っている。その近く、砂の上に、
半ばうもれて、砕けた顔があり、その渋面、
しわ寄った唇、そして冷酷に威圧する嘲笑は、
告げている、その彫り師がこうした情感をよく読み取ったことを
その情感はいまも生き延びている、この命のないものに刻まれ、
それを写し彫った手と、それを生んだ心を超えて。
そして台座には、次の言葉がある。
「わが名はオジマンディアス、諸王中の王、
わが業を見よ、汝ら力強い者よ、そして絶望せよ!」
傍には何も残っていない。この巨大な残骸の
断片の周りには、限りなくがらんとして
寂しく平坦な砂地が遥か遠くまで広がっている。

 The Intellectual Devotional の "Ozymandias" のページ末部には次のような説明がある。
 「オジマンディアス」は、どのような一時的政治権力よりも、芸術にこそより永続する価値があることを暗に示唆している。

詩の 6〜8 行目を読めば、「暗に示唆している」というより、もっとはっきり表現されているように思われる。なお、「読書メーター」というサイトの c さんの感想・レビュー記事から、文献 4 にもこの詩の和訳が載っていることを知ったが、それはまだ見ていない。ただ、c さんは詩の 10〜11 行目に対する文献 4 の訳、「我が名はオジマンディアス、〈王〉の中の〈王〉/我が偉勲を見よ、汝ら強き諸侯よ、そして絶望せよ!」を引用している。

 訳す上でとくに難しいと感じたところは、8 行目の "the heart that fed" と 12 行目の "Nothing beside remains." である。前者については最初、"the heart" は彫り師の心を指すのかと思い、「注いだ心血」としてみた。しかし、文献 5 の注 6 に
[...] "the heart that fed" must be Ozymandias' own, feeding on (perhaps) its own arrogance. Kelvin Everest and Geoffrey Matthews suggest that line 8 ends with an ellipsis: "and the heart that fed [them]" (that is, those same passions that are the referent of the pronoun "them" governed by "mocked" (The Poems of Shelley, II: 1817-1819 [London: Pearson, 2000]: 311).
とあり、オジマンディアスの心を指していると解釈すべきだと知った。そこで、「それ(情感)を生んだ心」に変更した。岡村訳もそういう解釈で、「その情念を育んだ心」としている。

 難しい点の後者、"Nothing beside remains." においては、"beside" を "Nothing" につく形容詞とも、"remains" を修飾する副詞ともとることができる。これも文献 5 の注 12 に
No thing remains beside. Bodl. Shelley MS. e.4.
とあるのが参考になる。上記引用中、イタリック体の部分は文献 6 のことであり、シェリーの原稿の複写である。ということは、シェリーは創作時には副詞的用法と分かる書き方をしていたことになる。そこで、私の訳では副詞扱いとした。この点は岡村訳と異なる。

 岡村訳で別の気になる点を一つ挙げておくと、12〜13 行目の "the decay / Of that colossal wreck" が「巨大な残骸の/骸(むくろ)」となっていることである。「骸」という漢字が二つ続く視覚上の問題の他に、「骸」の意味が「首を切られた胴体」(広辞苑第7版)であることからすれば、砂漠に転がっている脚や顔を指さないことになるという難点がある。

 (つづく)(次回は、シェリーがこの詩のインスピレーションを受けたラムセス 2 世像について述べる予定。)

文 献
  1. 壺齋散人(引地博信)「オジマンディアス OZYMANDIAS」
    https://poetry.hix05.com/Shelley/shelley02.ozymandias.html)。
    「『オジマンディアス』とは、古代エジプト王ラムセス 2 世のこと【タイトルの意味】」
    http://breakingbadfan.jp/trivia/cranston-ozymandias/)にも引用されている。
  2. 岡村眞紀子訳「オジマンディアス」、武田雅子「英詩入門―いろいろな詩の技法―」
    https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181116195723.pdf?id=ART0009622599)中に引用。
  3. Percy Bysshe Shelley, "Ozymandias" in Miscellaneous and Posthumous Poems of Percy Bysshe Shelley (W. Benbow, London, 1826) p. 100
    (https://play.google.com/books/reader?id=MZY9AAAAYAAJ&printsec=frontcover&output=reader&hl=en&pg=GBS.PA100).
  4. アルヴィ宮本なほ子編『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』(岩波文庫、2013)。
  5. "Ozymandias" (http://rpo.library.utoronto.ca/poems/ozymandias), in Representative Poetry Online.
  6. Bodleian Library MS Shelley e.4, fol. 85r. Facsimile edited by Paul Dawson, The Bodleian Shelley Manuscripts, gen. ed. D. H. Reiman (1988).

 (2018 年 11 月 30 日修正)

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2018年11月24日土曜日

鶏足寺の紅葉 (Autumn Leaves of Keisokuji Temple)

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 昨 23 日、「紅葉の鶏足寺と『想古亭げんない』:晩秋の観音の里散策と湖国の幸を古民家で」というバス旅行に参加した。集合は JR 大阪駅横の西梅田スクエア前に午前 8 時 10 分前までにということで、わが家からそれに間に合うように行くには午前 4 時に起きる必要があった。それを克服して、JR 鳳駅発の予定の関空快速に間に合ったが、なんと、京橋駅の設備点検のため外回り環状線が運休中で、その快速電車は天王寺止めだという。やむなく、天王寺で地下鉄に乗り換え、時間を気にしながら集合地へ向かった。それでも、集合時間に 5 分の余裕を持って間に合った。

 バスが大阪を出発した時は晴天だったにもかかわらず、目的地近くの滋賀県北部へ入ると小雨だった。午後には天候が回復するかもしれないという情報で、添乗員さんが予定を変更し、鶏足寺への散策を後に回し、まず、風格のある百姓家を利用した想古亭源内で琵琶湖の幸を食材にした昼食を楽しむことになった。水上勉の「湖の琴」に出てくる料亭のモデルだという想古亭は、その建物や庭にも趣きがあったが、雨のため、残念ながら写真は撮らなかった。食後の自由時間に想古亭のすぐ隣にある伊香具(いかぐ)神社の広い境内へ行ってみた。ここでも雨のため、散策はごく少しだけにとどめた(下の写真)。


 再びバスに乗って下車したのは、鶏足寺・石道寺 紅葉散策の総合案内所(といってもテント掛けの臨時の場所)の前である。バスで配布された散策案内図では、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)(ともに鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などを収蔵・公開している蔵である)への石段を登ってから、右へ曲がり、薬草畑の間を抜ける小道を行くようになっていた。しかし、添乗員さんの勧めで、私たちは石段を登らないで脇の道から直接、薬草の小道へ進んだ(昨年度の紅葉期間に向けて作成された奥びわ湖観光協会の PDF ファイルがこちらにある。その 2 ページ目の地図を別ウインドウに出しておいて読んでいただくと分かりやすいだろう)。己高閣、世代閣へは帰路に坂道で行けるのだ。

 薬草の小道の先の鶏足寺遊歩道を進むうちに、右手に湿地に続いて亀山の茶畑が見えると鶏足寺境内が近い。その先に石道寺があるが、われわれバス一行の観光は鶏足寺(旧飯福寺)までということだった。雨は相変わらず続いていて、よいカメラ・アングルを選ぶ余裕はなかった。それでも紅葉が見事だったので、なんとか格好のつく写真を小数枚ながら撮ることができた(本記事のトップの写真と、以下に載せる写真)。


 行きには高速道路がかなり混んでいたが、帰途はそれほどでなく、予定よりいくらか遅い午後 6 時過ぎ、車窓から美しく望まれた満月とともに JR 大阪駅西口へ帰着した。

 (2018 年 11 月 25 日修正)

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2018年11月22日木曜日

「みんなで歌う音楽会」、そして中学時代の思い出 ("Concert to Sing Together", and Memories of Junior High School Days)

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「みんなで歌う音楽会」のチラシ。
The leaflet of "Concert to Sing Together".

 このところ毎月 1 回、岸和田市立福祉総合センターで開催されている「みんなで歌う音楽会:歌門来福!」に参加している。主催は、ねこじゃらし音楽事務所、ピアノ弾き語りと歌のリードは喜多陵介氏である。参加者が毎回 10 名程度しかいないのは少し寂しいが、各自が多くのリクェストを出して、おおむね全部採用してもらえるのは嬉しい。さる 11 月 19 日(月)に今月のその催しがあり、行って来た。いつもは、私以外にもう一人、夫人同伴で来る男性がいるのだが、その日はその夫婦のうち夫人だけが参加していて、男性は私一人だった。

 私は「里の秋」その他をリクェストした。リクェスト用紙には、その曲についての思い出など、コメントを書く欄がある。「里の秋」には、次のようなコメントを書いたが、いかにも男性が書いたらしい文では、書き手が分かってしまうので、工夫を要した。
 中 1 の時、「夏だ、夏、夏!」で始まる作文を書いて、クラスでほめられました。同級のよく出来る子が中 2 では別の学校へ行き、その学校の新聞に「秋だ、秋、秋、秋、秋!」と始まる作文を載せていたのを見た時は複雑な気持ちでした。
このリクェストは最初に歌う 3 曲「駆けつけ 3 曲」の中でも最初に選ばれ、コメントも紹介された。「出来る子」と書いたのが、工夫をしたところである。「出来る女生徒」と書いたのでは、女生徒のことを気にかけていた男性と思われそうだからである。

 その出来る女生徒は H・Y さんといって、国語、数学などの試験の成績では、私といつもクラスで 1、2 位を争っていた。それで、彼女と私は「川上と青田のようだ」と級友の一人にいわれたことがある。その年(1948 年)、プロ野球で同じ読売ジャイアンツにいた川上哲治と青田昇が、ともに 25 本のホームランを打ち、ホームラン王を分け合ったのである。しかし、私は体育や音楽を苦手としたのに反し、H・Y さんには苦手科目が全くなかった。したがって、彼女の方が断然クラス一の成績優秀生だった。さらに彼女には、すでに大人びた風格があり、同級生はみな幾つも年下の子供のように見えたに違いない。また、彼女は両親を早く亡くしたのか、祖母と暮らしているということだったが、私は彼女のその後の消息を全く知らない。

 私の作文をほめたのは、中 1 の時に国語だけを担当してもらった T・Y 先生で、夫君を戦争で亡くされたということだった。先生は天徳院という寺院の裏あたりで畑を作っておられ、その畑で出来た大根を年末近くに友人と一緒にもらって来たことがあった。私たちが高校 1 年生の時に、先生は再婚して、T・M 先生となられた。

 私は T・M 先生と長らく年賀状を交換していた。いまふと、T・M 先生ならば H・Y さんの消息をご存知だったかもしれないと思ったが、先生は 2008 年に亡くなられた。記録を見ると、金沢の先生宅を私が最後に訪れたのは 2000 年の夏で、その時先生は 83 歳だったと記してある。私たちが習った時の先生は 31 歳だったという計算になる。

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2018年11月20日火曜日

『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』を原書で読む:「論理学」のページ (The Intellectual Devotional: Page on "Logic")

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『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』の原書。
The book The Intellectual Devotional.

 デイヴィッド・S・キダー、ノア・D・オッペンハイム・著、小林朋則・訳『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』(文響社、2018)がよく売れていると新聞で知り、その原書を買って読んでいる。原書の題名は、The Intellectual Devotional: Revive Your Mind, Complete Your Education, and Roam Confidently with the Cultured Class (Rodale, 2006) である。"Devotional" は「短い礼拝、簡単な祈祷」という意味で、"Intellectual Devotional" で、信心深い人たちが日々祈祷をするように、日々短い知識に触れるということを表しているようだ。曜日毎に次のように決められた 7 分野の知識を循環式に教えてくれる本である。月=歴史、火=文学、水=視覚芸術、木=科学、金=音楽、土=哲学、日=宗教。曜日や 1 日 1 ページということにこだわらないで読んでいるが、ほぼ 1 日 1 ページの割合で進んでいる。何について読んでも、わずか 1 ページの説明(細かい字で詰め込んではあるが)では、いろいろと疑問が起こる。しかし、それにより、読者が特に興味を持った事柄について、もっと調べてみるようにさせる、というのは、この本の一つの長所かもしれない。

 疑問が起こった例の一つとして、ここでは同書 62 ページの「論理学」(哲学分野)を取り上げる。私は大学教養課程で論理学の講義を選択する機会はあったが、それを選ばなかったので、論理学を学んだことがない。したがって、論理学を学んだ人たちには、つまらない疑問と思われるかもしれないが、その点はご了承願いたい。

 The Intellectual Devotional の「論理学」についての冒頭の説明を拙訳で記せば、次の通りである。
 論理学は形式的に妥当な論証についての学問である。論証は、前提あるいは仮定と呼ばれる複数の文と、結論を述べる一つの文からなる。一例を示すと、次の通りである。
 ソクラテスは人間である。
 もしもソクラテスが人間ならば、ソクラテスは死すべきものである。
 したがって、ソクラテスは死すべきものである。

 ここにある例は、三段論法の例として普通書かれている次の例とは別の形で、どこか奇妙に感じられる。
 全ての人間は死すべきものである。
 ソクラテスは人間である。
 ゆえにソクラテスは死すべきものである。

 上記の部分に続いて、The Intellectual Devotional の説明はフォントが小さくなり、3 行半の文があった後、次のように記されている。
同じ議論の様式的表現は、次の通りである。
 1. p
 2. もしも p ならば q
 3. 従って、q
p と q がどんな文でも、これは妥当な論証である。

 説明の最初にあった(訳を略した3 行半の文にもある)ように「形式的に妥当」という意味では、そうであるような気がする。しかし、q が事実に反するような文の時、それが形式的にしても「妥当」と呼ぶのは変なように思われ、「『本当に妥当』と呼びたい結論を出すには p と q がどんな文でもよいはずはなく、何か条件が必要なのではないか」という考えが浮かぶ。

 そこで、インターネットで調べると、上記の p、q で表された 3 段階からなる論証は「モーダスポネンス」(ラテン語: modus ponens、「肯定によって肯定する様式」の意)と呼ばれる「妥当で単純な論証様式」だと分かった。そして、論理学で「妥当な(valid)」論証というのは、あくまでも「形式的に」正しい推論ということで、q という結論が真である(事実あるいは現実と一致する)ことを保証するものではなく、結論が真であるためには前提 1、2 がどちらも真であることが必要なのである。この場合の論証(私が「本当に妥当」と呼びたいと思った論証)は「健全な(sound)」論証と呼ばれる。(ウィキペディアのモーダスポネンスのページなどを参照した。)

 モーダスポネンスの様式的表現で 1、2 は順を入れ替えてもよく、英文ウィキペディアのModus ponens のページには次の例(私たちが論理学などを意識することもなく、ごく普通に使っているような推論)が示してある。
If today is Tuesday, then John will go to work.
Today is Tuesday.
Therefore, John will go to work.
同ページのこの後には、modus ponens についてのさらに詳しい説明が 5 章にわたって続いている。論理学もなかなか奥深いものである。

 なお、ちょっとした疑問を図書館まで出かけなくても、居ながらにしてすぐに解決できる時代が来ようとは、私の若い頃には想像も出来なかったことである。

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2018年11月18日日曜日

ツルゲーネフ・著、二葉亭四迷・訳「あいびき」 (Ivan Turgenev's The Rendezvous)

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ツルゲーネフ・著、二葉亭四迷・訳「あいびき」青空文庫版 XHTML ファイルの先頭部分。
A Japanese version of Ivan Turgenev's The Rendezvous.

 ツルゲーネフ・著、二葉亭四迷・訳「あいびき」青空文庫版をダウンロードして読んだ。これを読もうと思った動機は先の記事に記したように、11 月 9 日付けの朝日紙「天声人語」にあった紹介を読んだことである。「天声人語」は有料会員限定記事となっていて、オンラインでの参照が自由にできないが、その英語版 Vox Populi, Vox Dei は無料で読める。11 月 9 日付けの分 Bicentennial of Turgenev’s birth, an ideal time to read a classic には二葉亭四迷の写真も載っている。「天声人語」で読んだだけでは頭に残らなかった「あいびき」のあらすじを含む紹介が、いま Bicentennial of ... を読むと、実にうまく簡潔にまとめてあると思う。ここでは、少し異なった形での紹介をしてみたい。

 青空文庫版「あいびき」の作品データのところにウィキペディア「猟人日記」へのリンクがあり、どうしてかと思いながらそこをクリックすると、『猟人日記』の中の 1 編が二葉亭四迷により「あひゞき」(1888 年、『国民文学』に発表)として訳され、それが言文一致の名訳として知られる旨の説明があった。1888 年は明治 21 年、まだ文語文で小説が書かれていた時代で、その翌年に出た森鴎外の『舞姫』なども文語文である。

 二葉亭の口語文による訳は、現代の口語と大差なく、さらに、青空文庫版では新字新仮名に変換されており、読みやすい。促音の「っ」や「ふと」「ありあり」などの副詞が片仮名であることが少し妙、という程度の違和感しかない。作品の長さは、ダウンロードしたテキスト・ファイルを 12 ポイントのフォントで B5 サイズのワープロ文書に変換すると、12 ページに収まる程度である。冒頭に訳者による短い前書きがあり、「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです」と、二葉亭は自らの訳について謙遜している。

 作品は「自分」が樺(カバ)の林の中に座って周囲の自然を眺めているところから始まる。その自然描写は印象派の風景画を見るような美しさである。そのうちに「自分」が眠りに落ちて、目を覚ますと、農夫の娘らしい美少女が二十歩ほど離れたところに人待ち顔で座っていた。そこへ素封家の給仕と思われる若くて傲慢そうな男性が遅れてやってきて、あいびきが始まる。二人の会話から少女と青年の名はそれぞれ、アクリーナとヴィクトルと分かる。「自分」はあいびきの一部始終を観察している...という物語である。末尾に再び、今度は日の低くなった林の外の畑地の叙景が展開する。作中の「自分」はアクリーナに同情を禁じ得ないのだが、大抵の若い読者もそうだろうと思う。若くない私はむしろツルゲーネフの風景描写と二葉亭の妙訳の方に気を取られた。

 本ブログ記事題名の英訳をつけるに当たって、アマゾンで英訳版を探してみると、The Rendezvous の題で Herman Bernstein 訳(1907)が見つかった(Kindle 版は無料)。そこで、Bicentennial of ... で使用している The Tryst に代えて、The Rendezvous を採用した。

 Bernstein 訳の冒頭の 2 センテンスは、次の通りのやさしい英文である。
 I was sitting in a birch grove in autumn, near the middle of September. It has been drizzling ever since morning; occasionally the sun shone warmly;—the weather was changeable.
これを私が訳すと次のようになる。
 九月も半ば近い秋の日、私はカバ林の中に座っていた。朝から霧雨で、時には陽も暖かく射すという、変わりやすい天候だった。
他方、二葉亭訳は、
 秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖(あたた)かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。
となっている。私の訳は英訳を通しての孫訳ではあるが、いかにも素っ気ない文章であるのに反し、二葉亭訳にはリズム感があり、またその場の雰囲気をよく漂わせてもいる。このようなところが二葉亭訳の名訳といわれるゆえんであろう。

 (2018 年 11 月 19 日修正) 

【後日の追記】

 この記事を投稿した日の朝日紙「天声人語」欄は、奇しくも芸術(映画・文学)と雨の関係を述べていた。アメリカ文学において雨は死と再生の象徴であるとの見解も紹介されている。「あいびき」の冒頭でも小雨が降ったり止んだりしている。ロシア文学でも似たような象徴の意味が雨にあるのだろうか。その「天声人語」の英語版はこちら

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2018年11月15日木曜日

映画『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』 (Film Anna Karenina: Vronsky's Story)

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左、今回の映画『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』のチラシの一部。右、1967 年の映画『アンナ・カレーニナ』の小冊子表紙の一部。
Left, part of the leaflet of the film Anna Karenina: Vronsky's Story. Right, part of the cover of the booklet of the 1967 film Anna Karenina.

 さる 2018 年 11 月 14 日、大阪のシネ・リーブル梅田で、カレン・シャフナザーロフ監督によるロシア映画『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』を見た。「有名なトルストイ原作小説の後日譚」と説明した新聞記事を読んだことが、私をこの映画に行かせたのだが、後日譚(あとで述べる理由で、「後日譚の現在進行形の部分」というのが正確である)は半分以下程度で、小説『アンナ・カレーニナ』の復習のような場面が多く、意外に思った。

 なぜこれが意外だったかといえば、私の読んだ紹介記事の見出しは、「ヴロンスキーの物語」の前で改行されていたが、改行後も同じ大きさの文字になっており、また、その本文では、カレーニナとヴロンスキーの間に全角スペースが入っているだけだったことが原因だと思う。(この映画のインターネット上の表記では、どれも「ヴロンスキー」の前が半角スペースになっているので、本記事の表題もそれに従った。)このような表現では「アンナ・カレーニナ」と「ヴロンスキーの物語」の関連が分かりにくい。

 他方、映画のチラシでは「ヴロンスキーの物語」の部分は改行して文字が小さくなっており、原題名ではカレーニナの後にピリオドがついており(ロシア語のラテン文字表記で、Anna Karenina. Istoriya Vronskogo)、英語題名ではコロンが入っている(Anna Karenina: Vronsky's Story)。これらのような表記を映画鑑賞前に見ていたならば、「ヴロンスキーが語るアンナ・カレーニナの物語」という意味がはっきりして、『アンナ・カレーニナ』の復習のような場面が多いことを意外には思わなかったはずである。ただし、それらの過去の場面は、アンナの息子セルゲイの求めでヴロンスキーが語ったという形だから、現在進行形の部分とともに後日譚であるには違いないのだが...。

 私が『アンナ・カレーニナ』の原作を中村白葉訳(岩波文庫、1935)で読んだのは高校 1 年生の春のことで、原作の筋を詳細に覚えてはいない(その後の岩波文庫版は白葉の娘婿、中村融の訳)。したがって、アンナについての物語で、「ヴロンスキーの」と断ったこの映画が原作と特に異なるのはどこかをはっきりとはいえない。ただ、ヴロンスキーと同棲している間にアンナが彼の誠意を疑い始め、小間使いとともに馬車を駆って駅へ急ぐことになるという、アンナの最期に近いあたりが詳しく描写されていることろに相違があろうかと想像する。私はかつて、アレクサンドル・ザルヒ監督による 1967 年のソ連映画『アンナ・カレーニナ』を見た。その時のアンナ(タチアナ・サモイロワ)に比べて、今回のアンナ(エリザヴェータ・ボヤルスカヤ、実生活ではヴロンスキーを演じたマクシム・マトヴェーエフの妻である)は自我がより強いようにも感じられた。演出がそうなのか、あるいは私が俳優の容貌から得た個人的な印象なのか分からないが(上掲のイメージ参照)。

 後日譚のうちの現在進行形部分は、中国東北部を舞台にした日露戦争が背景になっており、ヴィケーンチイ・ヴェレサーエフによるこの戦争に関する文学作品が使われているという。戦争といっても、成長して軍医となったセルゲイが負傷したヴロンスキーに偶然出会うのは、ロシア軍の野戦病院においてであり、本来ならば、国際条約(ジュネーヴ条約)によって攻撃されない場所である。しかし、そのバラック建ての病院は、守られるべき印の旗を失ってしまったため、最後の場面で日本軍の激しい砲撃にさらされ炎上する。このようなことが日露戦争で実際に起こったのだとすれば、なんとも痛ましい。野戦病院で歌を歌ったり小物を売ったりして暮らしている中国人孤児がヴロンスキーになつき、彼もその女児に優しくする。彼は砲撃が激化する直前、避難する軍の馬車にその女児を乗せて、助かるように計らう。彼とアンナとの間にできた娘が幼くして死んだとセルゲイから聞いたことが、彼をそうさせたということだろう。

 (2018 年 11 月 16 日修正)

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2018年11月12日月曜日

太宰治著『ろまん燈籠』を読んだ理由 (The Reason Why I Read Osamu Dazai's Roman Doro)

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太宰治著『ろまん燈籠』とそれを紹介した『図書』誌の記事。
Osamu Dazai's Roman Doro and the Article in Tosho That Introduced It.

 最近、太宰治著『ろまん燈籠』(新潮文庫、1983) を買って読んだ。そのきっかけになったのは、 『ニセモノの輝き——太宰治「ろまん燈籠」』と題した作家・柳広司氏の紹介記事(『図書』2018 年 10 月号、p. 44)を読んだことである。その記事は同氏による「二度読んだ本を三度読む」というシリーズの第 13 回だった。紹介記事を読んだだけでは、必ずしも読みたいという気持ちにつながらないが、今回の紹介作品の内容が、私の一つの思い出につながったため、読むにいたったのである。

 文庫本『ろまん燈籠』には、作品「ろまん燈籠」を含む 16 編の短編が収められている。『ろまん燈籠』を買った目的は、もちろん、「ろまん燈籠」を読むためである。この作品を紹介した柳氏の文には、まず、ロマンスが好きな兄妹五人が共同で一つの「お話」を順番に書き継いでいくというだけの小説、だと説明されていた。「お話」を順番に書き継ぐ——これが私の思い出を呼び起こしたのである。

 大学 3、4 年生の頃、私は冬休みの帰省時の新年早々に郷里の友人たち 5 名(うち 2 人は地元の大学へ通う女性、男性のうち 2 人はすでに社会人だった)を自宅に招き、夕食時間を挟んで正月らしい遊びをして過ごしたことがあった。(食事をもてなした母は大変だったことだろうと、いまになって思う。5 名全員を招くことができたのは 1 度だけだったか、2 度もあったか、あるいは修士課程 1 年の頃までも続いたかは記憶していない。)その時にした遊びの中に「リレー小説」というのがあって、まさに、「お話」を順番に書き継いだのである。

 「リレー小説」のルールは、 直前の一人が書いた部分だけを読んで、続きを書き、次へ回すというものである。これの単純化版が子供の遊び「誰が、誰と、いつ、どこで、何をした」になる(この子供の遊びでは、一つ前の部分さえも読まない)。「リレー小説」では、二つ前までを書いた人たちがどのように話を展開していたかが、しばしば分からなくなっているため、トンチンカンな結末になることが多く、それが笑いの種にもなる。この点では、「ろまん燈籠」の「お話」の書き継ぎとは大いに異なるのだが、私たちが作った「リレー小説」中に、一つだけ、いまでも記憶に残っている、優れたコントのような結末のものがあった。

 記憶にあるリレー作品中では、私を入れて 6 人中の 5 人までによる文は覚えていないが、おおよそ次のような内容だった。
 英夫と順子は K 市に住んでいて、良い友人同士だった。大学卒業後、英夫は他の市に勤務することになった。そこは K 市から遠いところだったので、英夫はそこへ引っ越さなければならない。順子は寂しくなることだろう。
実際に使われた名前までは覚えていなかったので、英夫と順子という名はいま適当に入れたものである。子供の遊びの「誰が、誰と...」では、参加している子供たちの名前を入れて笑い合うことが多いが、すでに成人していた私たちの「リレー小説」では、そういう俗っぽい笑いを求めなかったことは確かである。しかし、「大学卒業後、他の市に勤務」とは、参加者たちのうちのまだ学生だった者たちの近い未来を微妙に表しているようである。

 結末部分を書くことになったのは、先に「すでに社会人」と書いた中の一人、高校時代に私と交換日記を書きあっていた M 君で、頭の良い青年だった。彼は次のように結んだ。
 引越しを済ませた日、英夫は順子からのハガキを受け取った。それには「私もこのたび引っ越すことになりました。新しい住所は、 T 市 S 町 1-2 です」とあった。英夫は引越し仕事の疲れをいやすため、少し散歩をして来ようと家を出た。出がけに新しい家の門をちょっと振り返ってみた。そこには「S 町 1-2」の表札がかかっていた。
M 君はすでに故人となり、この思い出を話し合うこともできない。彼に続いて、この時の仲間の男性一人、女性一人も亡くなった。

 ところで、「ろまん燈籠」で書き継がれた作品は、西洋のおとぎ話風のものである。この小説で興味深いのは、出来上がった「お話」よりもむしろ、兄妹たちが筆をとるにあたっての思考や行動、そして、それぞれの性格を表した書きぶりであろう。

 なお、柳氏の文の題名に「ニセモノの輝き」という言葉があるのは、次のところからである。柳氏は太宰が小説を書き始めた前提にあるのは「ホンモノなんてない。あるのはニセモノの輝きだけだ」という考えだと推定している。そして、「ホンモノなんかない!」とストレートに絶叫している『人間失格』のような作品を読むことは若い人たちに任せて、「ろまん燈籠」のような「ニセモノの輝き」を目指した諸作品を愛読する大人が出てきても良い頃だ、と文末で述べているのである。

 私は『ろまん燈籠』を愛読するとまでは至らなかったが、その中の他の短編についても、ひとまとめにした簡単な感想を気が向けば書くであろう。


 【注】リレー小説の思い出については、約 15 年前に英文で記したことがある("Relay Composition")。ここに和文でおおよそ書いてから、その英文を見ると、それを記した時よりも記憶がおぼろげになり、いささか不正確に書いていることが分かった。そこで、私たちの作ったリレー小説の途中までの概要と結末部分は、英文のものを参考にして書き直した次第である。

 (2018 年 11 月 13 日一部追加・修正)

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2018年11月11日日曜日

ツルゲーネフ生誕 200 年 (Bicentenary of Ivan Turgenev's Birth)

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ツルゲーネフ著『父と子』岩波文庫版の扉と口絵。
Japanese translation of Ivan Turgenev's "Fathers and Sons", Iwanami-Bunko Edition.

 2018 年 11 月 9 日はイワン・ツルゲーネフの生誕 200 年ということで、その日の朝日紙「天声人語」は彼の作品『あいびき』に関わる話から始めて、『父と子』『初恋』『煙』『貴族の巣』と作品名を並べていた。私が 1970 年前後に丸善大阪支店に予約し職場へ配達してもらって集めた『新潮世界文学』にツルゲーネフの巻はなかっただろうかと、応接室の本箱へ見に行った。「天声人語」の記事から、まだ読んでいないツルゲーネフのどれかの作品を読んでみたいという気にさせられた文学青年ならぬ文学老年である。しかし、ツルゲーネフの巻は含まれていなかった。

 この文学全集に挟んであるリストを見ると、「集中的に選ばれた世界の文豪 24 人」という標語で売り出していたことが分かる。全 49 巻あっても、作家数は巻数の約半分に絞られていたのだ。この全集のケースとカバーを伴った一つの巻の写真がこちらにある。私は書棚に並べた時に荘厳な眺めとするためケースとカバーを廃棄したので、ケースとカバーの写真を見ると懐かしい思いもする。この全集中には未読の巻がまだ多い。全集として買った本は、読むのがどうしても後回しになるもののようだ。——話がツルゲーネフからそれてしまった。

 ところで、私の蔵書中のツルゲーネフの作品としては、『父と子』だけが中学 3 年から読み始めた岩波文庫のコレクション中にあるが、読んだ記憶は薄れてしまった(原題は父も子も複数形であるが、邦題ではそのことが分からない)。その本は金子幸彦訳、1959(昭和 34)年発行の第 1 刷である(上掲の写真)。高校時代に読んだ桑原武夫著『文学入門』(岩波新書、1950)の巻末の「世界近代小説五十選」に入っている作品なので、岩波文庫として新しく出たという新聞広告でも見てすぐに買ったのだろう。

 天声人語子紹介の『あいびき』は、インターネット上の青空文庫に二葉亭四迷訳が収められており、無料でダウンロードして読むことができる。『岩波文庫解説総目録 1927–1996(上)』p. 335 には、二葉亭四迷訳『あひびき/片恋/奇遇(他一篇)』として、かつて岩波文庫版が出版された記録があり、その解説中に「原作の妙味を新鮮な文体に移し、日本の近代文学に大影響を与えた。鷗外訳の『即興詩人』と並んで明治の二大訳業とたたえられる」とある。『あいびき』は短い作品だが、二葉亭の訳がそういう名訳ならば、まずは、これをゆっくり楽しんでみたい。

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2018年11月9日金曜日

過去記事 2 編への訪問数急増の怪 (Strange, Abrupt Increase of Visits to Two of Old Posts Here)

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堺市・八田荘公園の秋色。2018 年 11 月 2 日撮影。
Autumn colors in Hattasho Park, Sakai; taken on November 2, 2018.

過去記事 2 編への訪問数急増の怪

 当ブログへの全期間ページビューのベスト 5 は以下の通りである(2018 年 11 月 9 日現在、ブログ・プロバイダー Blogger による集計)。
「鑑みる」の用法 2863
戦争だけはやっちゃダメ:いまよく読まれているブログ記事「96 歳の遺言」 1608
交換力の本質 1418
苦手 1293
日本国憲法第 9 条について 1291
これらのうち、3 位と 4 位の記事は、最近になってページビューが急増してベスト 5 入りしたものである。

 3 位の「交換力の本質」(2006 年 12 月 11 日付け)では、ノーベル賞受賞の物理学者・益川敏英博士の著書にあった説明を少しばかり丁寧にして、交換力で引力が生じることを解説している。交換力について学んだばかりの理系の学生たちの参考になるのだろうか。交換力について調べよという宿題でも出されているのだろうか。その記事中に、「2 つの状態の混合効果」について、益川博士の著書にあった数式を使っての説明を筆者が紹介した PDF へのリンクを記したが、そのリンク先を後に変えながら、今まで訂正していなかったと気づき、あわてて訂正を書いた。記事中の文献 2 のリンク先も変わっていて、ついでに修正した。

 4 位の「苦手」(2005 年 2 月 1 日付け)は、筆者とその親友の高校時代の交換日記の 1952 年 2 月 1 日付けのものを、2 箇所に注をつけてはあるものの、単に書き写して紹介した記事である(交換日記は 2005 年前後に断続的に連載していた)。タイトルは、筆者(Ted)の方の日記に体育実技を苦手としたことを抽象的に書いてある(注 1 で説明してある)ところから付けたものだが、苦手克服法を述べた記事でもなく、読者に特に参考になりそうなところはないように思われる。

 ただ、筆者の方の同じ日記に、英語の時間に進み方が遅くて退屈だったので、a、b、c、d、e の文字をこの順でそれぞれ先頭に含む単語を並べて一つの文を作る遊び(換言すれば、答えが一義的には決まっていない課題の回答模索)をして過ごした旨が書いてある。自分でもすっかり忘れていたことだ。これが読者の興味を引いたのだろうか。しかし、この遊びのキーワードになるような言葉は記事中になく、同一あるいは同類の遊びの検索にはひっかかりそうもない[注 1]。この遊びは何かの本で知ったものだったか、あるいは友人から出された課題だったか、いまとなっては思い出せない。その時、文は二つしか作れなかったとして、それらの文を書いてある。本記事を読まれた方々も試みられてはいかが? 注 1 に紹介したウェブページが示唆しているように、アルファベットから 1 文字ずつ取った各種の 5 文字で同様の試みをするのも面白いかもしれない。冠詞などが入れにくくて、文法的に正しい文は必ずしも作れないだろうが。


【注】
  1. 試しに「アルファベット作文」で検索すると、「診断メーカー」というウェブページが見つかった。そこには「アルファベット作文ったー」という、ふざけた見出しと「表示されたアルファベットから始まる文を作ってみよう!」の言葉に続いて、ABCDE の場合の一作例(C を K とみなした和文)が示してある。しかし、そのページ上に続いて展開するのは「名前診断」のことばかりで、アルファベットが表示される場所や作った結果を入力する場所などは見当たらない。ページの役割が変わってしまったようである。

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2018年11月8日木曜日

J・M 君へ、読書のことなど 2 (To J. M.: On Reading etc. -2-)

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紅葉が進行中の堺市西区・笠池公園のサクラの木々。2018 年 11 月 6 日撮影。
Cherry trees whose autumn leaves are turning to autumn colors; taken in Kasasike Park, Kami, Sakai, on November 6, 2018.

J・M 君へ、読書のことなど 2

2018 年 10 月 24 日

J・M 君

 返信へのご返信、ありがとうございました。貴君がお読みの『入唐求法巡礼行記』は深谷憲一氏訳でしたか。私がインターネットで見つけた東洋文庫版は、足立喜六、塩入良道両氏の訳でした。深谷氏の序文抜粋を書き送っていただき、勉強になりました。この本がご母堂様のお勧めというのも興味深く存じました。私は母から勧められた本はなかったと思いますが、母が晩年に全巻を揃えて途中までしか読まないうちに他界することになった谷崎訳の源氏物語[母が買ったのは単行本、他方、リンク先は文庫版の巻 1]に、一度挑戦しかけ、途中で挫折したままになっています。

 私もミチオ・カクが紹介している、地球外文明をエネルギー消費の程度によって分類した Type I(惑星規模)、II(太陽系規模)、III (銀河系規模)の説明が不十分だったり、間違っていたりしました[注 1]。改めて彼の本のその箇所を開いてみると、その分類を提唱したのは、ロシアの天文学者、ニコライ・カルダシェフでした(先に、アメリカの物理学者、フリーマン・ダイソンの本でも読んだので、彼の提唱かと思い違いしていました)。各タイプは、それ以前のタイプよりエネルギー消費が約 100 億倍(10 の 10 乗倍)程度大きいもの、ということです。ミチオ・カクが詳しく論じているのは、現在 Type 0 である人類がいかにして Type I に到達し得るかで、その部分をまだ読んでいる最中です。

 ところで、美交会展の私の絵の前では、参考にした写真との相違などを私が懸命に説明して、貴君のご感想を聞きそびれたように思います。昨年は、ご来観後のメールで、「全体にふんわり」した感じだったとお聞きし、参考にした写真のギザギザ感が出せていなかったのは失敗と悟ったのでした。そこで、次回に山を描くときはギザギザ感を出したいと思いましたが、今回の燕岳の岩は、紹介誌によれば、比較的滑らかなのだそうで、また、大部分が雪に覆われている光景でもあり、その実験はできませんでした。今回の絵のイメージは、ブログ記事にも掲載しております。ご感想がありましたら、ぜひお聞かせいただければ幸いです。

 T・T


【メールをブログ記事にした際の注】
  1. このセンテンスが「私も」で始まっているのは、次のことによる。私たちの会話時に、円仁の旅行記についてライシャワーが世界の三大旅行記に入ると称賛している旨を J・M 君は述べた。しかし、その旅行記の一つ、マルコポーロの『東方見聞録』の著者名も書名もその時は全く思い出せなくて、残念だった、と J・M 君からのメールにあった。彼は、ライシャワーが深谷憲一氏に対して、円仁の日記はポーロの見聞録よりずっと信頼できると絶賛していた(深谷氏訳の本の序文にある)ことを述べたかったのだが、それができなかった自分を情けなくさえ思ったのである。お互いに、名前などを思い出すことが難しい高齢者となった。

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2018年11月6日火曜日

J・M 君へ、読書のことなど 1 (To J. M.: On Reading etc. -1-)

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紅葉が進行中の堺市鳳南町ひごい公園のナンキンハゼ。2018 年 11 月 6 日撮影。
Chinese tallow tree whose leaves are becoming autumn colors; taken at Higoi Park, Ōtoriminami-machi, Sakai, on November 6, 2018.

J・M 君へ、読書のことなど 1

2018 年 10 月 21 日

J・M 君

 ご丁寧なメールを頂き、恐縮です。貴君には、遠路わざわざ[美交会展を]ご来観[の上]、お土産までいただき、誠にありがとうございました。私からこそ、お礼メールを早く差し上げるべきところ、何かと時間を取られて(言い訳にはなりませんが、次に記すようなことです)、返信の形となってしまいました。

 まず、[...略...]。次いで、マックのシステムソフトの更新[(OS 10.14 Mojave へ)]をしました。これがなかなか長時間を要する仕事でした。そして、昨土曜日の朝、NHK 総合テレビで見た番組『チコちゃんに叱られる!』の中に、私が共同研究者たちと心理学関係の専門誌に[2 回にわたって]投稿したことのある問題、「鏡の謎」が取り上げられました。私としては一言いっておきたく、ブログにそのことを書き、今日の午前中にもその手直しをしました([こちら]でご覧になれます)。——というような次第です。

 T・K 君からの[われわれの鼎談に関する]返信については、貴君のメールにあった「しばらくは無理」という解釈でよいでしょうが、「しばらく」といっても、今年中ということになろうかと思います。正確を期するため、以下に彼のメールを引用しておきます。

 [...引用部分を略... ]

 先日お聞きした、円仁の日記を読んでいらっしゃるとの話は、とても興味深く、復習のため、「円仁 日記」でインターネット検索をしました。その結果、貴君がお読みの本はこれかな、と思われる書名が見つかりました。『入唐求法巡礼行記 12』(平凡社、東洋文庫;1970、1985)でしょうか。ライシャワーによる紹介書の和訳『円仁 唐代中国への旅』(講談社学術文庫、1999)も見つかりました。

 私も、読んでいる本の題名を忘れていて、申し上げられませんでした。日系アメリカ人の理論物理学者ミチオ・カク氏の本の題名は、私の読んでいる英語版では "Visions" ですが、和訳書では 21 世紀の科学という意味で、『サイエンス 21』となっています(内容の一部は 21 世紀よりはるか以後にも及んでいますが)。1 日に 1 ページ読んで教養を身につける本は、"The Intellectual Devotional: Revive Your Mind, Complete Your Education, and Roam Confidently with the Cultured Class" という難しい、副題を含めるととても長い、題名です。和訳書では、『1 日 1 ページ、読むだけで身につく世界の教養 365』となっています(実際には、7 の倍数の日数、364 日で終わりです)。()内に記しましたように、和訳書の題名は、何かとひっかかりを感じるところがあります。本文も和訳で読むと、誤訳ではないかと思うところにしばしば気づきそうで、原書で読めそうな本は、出来るだけ和訳書では読まないようにしています。

 貴家のご旧宅に昔の雰囲気が残っていたり、O 学園 90 年史にご祖父様、ご両親様に触れた記事があったりしたとは、素晴らしいですね。

 奥様にくれぐれもよろしくお伝えください。妻からもよろしくと申しています。

 T・T


 注:[ ]内は、J・M 君宛のメールをここへ転載するにあたっての変更であり、本の題名へのリンクも転載にあたっての追加である。なお、このメールを書いた時には忘れていたが、ミチオ・カクの本の原題は "How Science Will Revolutionize the 21st Century" という副題を含んでいる(副題を忘れていたのには、ハードカバーで買ったので、読んでいるいまは外して本箱に入れてあるダストカバーに非常に小さい文字で書いてある、ということも原因となっている)。したがって、邦訳書の題名『サイエンス 21』は決して原題から飛躍したものではなかったが、原題の "Visions" に込められた思いが失われたという点での不満は残る。

 (2018 年 11 月 7 日一部修正。)

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