2013年10月31日木曜日

海外旅行から帰ってみると (On Coming Back from Overseas Travel, ...)


 当地でまだキンモクセイの咲いていなかった 10 月 17 日、妻と私は関西空港のホテルに前泊し、18 日朝のルフトハンザ機でドナウの船旅に向かった。今年はキンモクセイの花を見ないことになるかと思っていたが、28 日午前、わが家へ戻ると、庭のキンモクセイがちょうど満開だった。

On October 17, when sweet osmanthus was not yet blooming here, my wife and I stayed at the hotel near Kansai Airport and headed to cruise on the Danube by a Lufthansa plane in the next morning. We thought that we would not able to see the blossoms of sweet osmanthus this year. On returning to our house in the morning of October 28, however, we saw in our yard those blossoms in full bloom.

2013年10月16日水曜日

2013年9月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of September 2013)

[The main text of this post is in Japanese only.]


当地・堺でも稲刈り風景が見られる。2013 年 10 月 12 日、ウォーキング途中で撮影。
. The photo was taken on my way of walking exercise on October 12, 2013.

2013年9月分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 9 月分への感想を 2013 年 10 月 14 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 「鏡の謎」をめぐって:M・K 先生へ
 「鏡の謎」とは、古来いわれている「鏡はなぜ左右を逆にし、上下を逆にしないか」という疑問である。最近、名古屋工業大学名誉教授の M・K 先生(ご専門は化学)が、日本科学者会議大阪支部の哲学研究会で「『右と左』—対称、鏡、旋光性、らせん—」と題する講演をされることを知り、私も鏡においての「右と左」に興味を持っている(詳しくはこちら参照)ことをお知らせし、メールで若干の意見交換をして来た。以下は、きょう M・K 先生へ送ったメールである。
と述べ、K 先生からのメールに対して、いくつかのコメントをしています。

 「詳しくはこちら参照」なる文献は、吉村浩一著『鏡の中の左利き』(2004年発行)の巻末にある「-物理屋のコメント」のことです。吉村氏は同書の「はじめに」において、次のように述べています。
多幡先生達は[…]高野先生の “多重プロセス理論” に対し、3つの場合分けなど必要なく、鏡像問題は単一メカニズムで説明可能とする説を、高野先生が発表されたのと同じ英文心理学雑誌に寄稿されていた (Tabata & Okuda, 2000)。しかもその法則性は、心理学での議論を必要とせず、物理学的に説明できると主張された[(…)]。筆者は、多幡先生からお考えを直接うかがい、先生にも筆者の行ってきた逆さめがね研究と鏡の問題の関連性をお話しした。拙著『逆さめがねの左右学』での鏡像問題に関する解説は、基本的に多幡先生のお考えと一致するものであり、先生からのご示唆を取り込んで組み立てたものであった。[…]多幡先生には、物理学レベルの説明と心理学レベルの説明を曖昧なままにはできないことを教えていただいた。
このような経緯で、上記の文献は巻末に収められたものです。

 筆者は「-物理屋のコメント」の「1.5 鏡映変換」の節で、
物理学の基礎である力学の学習のごく始めに、立体幾何学や物理学でよく使われる右手直交座標系というものを学ぶ。この座標系に対して、座標軸の 1 本(あるいは 3 本とも)を逆向きにする変換を施すと左手直交座標系が得られ、この変換は数学的には、行列式の値が -1 になる行列で表すことができる。この変換が「鏡映(reflection)」と呼ばれていることが重要なのである。
として、鏡映変換を図解説明し、「右手直交座標系から左手直交座標系への変換を鏡映と呼ぶことが納得できるであろう」と解説しています。以上のことを念頭において、このブログ記事中のコメントを読むと、筆者が何を問題にしているのか理解できます。

2. 第56回新象展 大阪展
 快晴の一昨日、大阪市立美術館で開催中の「第 56 回新象展 大阪展」を見に行った。大連の小学校での私の同期生、S・Y さんが新象作家協会の会員で、毎年、招待葉書を貰うのである。[…]
 新象展は、[…]抽象絵画を中心に、抽象造形作品も含む展覧会である。[…]
 S・Y さんの作品は "DAIREN - (FUKUSHIMA) 2013" と題されている。"DAIREN" は彼女の出生の地への思いを込めて、毎年の作品の題名に含まれている。そこへ、東日本大震災のあと、"(FUKUSHIMA)" が加わるようになった。[…]
 今回は、寒色も混じるものの、比較的穏やかな色合いという感じがした。中心付近の小円は深く沈み込んでいる趣きがあり、そこから左上にかけて尖った先端部を持つ曲線が、飛翔しているかのように描かれていた。そこで、中央の円形が溶融炉心を連想させ、左上へ延びる曲線は、溶融した炉心からの放射性物質というよりは、原子炉事故の失敗を補う、わが国のロケット技術を象徴するかのように思われたということと、私の思いは勝手なものかも知れないが、いろいろな想像を楽しくめぐらせて貰える作品と見受けたことを感想としてメールで書き送った。合わせて、目下、漱石の『草枕』を再々読して、抽象絵画のまだ現れていなかった時代に漱石の描いた主人公が、「抽象的な興趣」を絵にしたいと望んだことを興味深く思っていることを記した。S・Y さんからの返信には、そういう意図で描いたものではないが、そういう思いを抱いたことはある旨のことが書かれていた。
と述べられています。

 私も S・Y さんのブログで出展作品を鑑賞し、画歴豊かで美しい色彩の大作だと感じました。絵の前に立たれた彼女は、長年絵画に打ち込んでいらっしゃるせいか、大変若々しいです。私は、炉心溶融した原子炉から放射性核種が飛散し、風に流されて飯館村の方向へ拡散している様子を思い浮かべました。『草枕』の主人公が「抽象的な興趣」を絵にしたいと望んだくだりを、筆者が付記されことは、S・Y さんに参考になることと思います。ご多忙の中、毎年絵画展を鑑賞に出かけられ、日をおかず適切なコメントを書かれる筆者の律儀さに感心しています。

3. エム君へ:オニュー君のことなど再びエム君へ:読書のことなど

 中学校の 2、3 年だけ同じ学校にいてもクラスが一緒だったことがなく、筆者の高校時代の親友を通じて親しくなった、とのことながら、中学時代の共通の記憶や思い出、友達との交友、読書などについて語り合える友人があることは稀有のことであり、楽しみでもあることと拝察し、興味深く拝見しました。
 メール2通、ありがとうございます。とりあえず、きょうのメールについて返事をしたためます。特に、「不思議なのは野球をやっておられたわけでもない貴君が小学 6 年の時の他校チームの選手の綽名を高校生になってまで覚えておられたということです」にお答えするためです。
と始まります。そして、「ブログ Ted's Archives の検索窓で "Onew" を検索すると、[…]貴君が想像されたように、ニックネームを覚えていたのかもしれません」と几帳面に過去の事実を検証しています。また、「男子は、女の子に関心を持ち始める少し前に、格好のいい男の子に憧れを感じる時期があったりします。(貴君にはそういう経験はありませんでしたか。作家の三島由紀夫の場合、そういう精神状態が長く続いて、『仮面の告白』や『禁色』などの作品を生み出したようです。)」と筆者の体験を述べ、「それから間もなく女の子の方に関心が移りました(ハハハ)が、格好のいい一塁手を見ると、N 君に対して抱いたような気持はもう起こらないものの、ある程度の関心を持ったのだと思います」と、告白的説明をしています。

 「私は、引き揚げ前にいた大連嶺前小の野球チームが強かったので、大の野球ファンになりました。そして、引き揚げ後に入った石引小も、たまたま大いに強かったので、石引小の試合はたいてい応援に行ったのです」とも述べられています。野球がはやって皆が野球の遊びに熱中し始めたのは、敗戦後の 1946 年以降だったと記憶しています。大連時代の小学校に野球チームがあったことは、いささかか驚きでした[引用者注:大連での野球の話も、敗戦後の 1946 年のことです。同年秋には学校が閉鎖になり、翌 1947 年に内地への引き揚げが始まったので、僅かの期間だけでしたが]。

 第 2 信では、「貴君の『読んでおきたい本』のリストが、なかなか渋いものであることに感服しました。それでも、私の興味と重なるところがないではありません」と述べ、筆者の経験について語っています。高尚な文通だと思いました。

 第 1 信に戻り増すが、「スタンダールの作品の件ですが、インターネット検索すると、"Le Rose et le vert" というのがあり、英訳では "Pink and Green" となっています。これが貴君の書かれた『赤と緑』だと思います。グルノーブルは風光明媚とのこと、ツイッターとフェイスブック上での私の友人、キアラ・マイエロンさんがグルノーブルの研究所にいたときに自分の住まいから早朝に撮った写真を一枚見せてくれたことがあり、近くに山のある、とても素晴らしい風景だったのを思い出しました」と "Le Rose et le vert" についての調査結果などを述べています。『薔薇色と緑』は私も知りませんでした。キアラ・マイエロンさんについては、本ブログに時々登場した馴染みある方です。彼女のその時々の心情を伝える巧みで美しい写真が印象的でした。

2013年10月13日日曜日

小説中のヒロインたちの話し言葉 (Heroines' Spoken Language in Novels)

[Te main text of this post is in Japanese only.]


シロタエヒマワリ(白妙向日葵)。堺市・鈴の宮公園で、2013 年 10 月 5 日撮影。
Silverleaf sunflower. The photo was taken in Suzunomiya Park, Sakai, on October 5, 2013.

小説中のヒロインたちの話し言葉

 私は高校 2 年生と 3 年生の夏休みの、何でもよいから書いて来いという国語の宿題に、どちらも小説を書いて提出した。2 年生のときの作品「夏空に輝く星」は、原稿用紙 50 枚ほどの、やや長いものである(こちらでダウンロード出来る)。2 年生のときの作品「逍遥試し」は、2006 年に一度ブログサイトに掲載したが、そのサイトがプロバイダーの事故で消滅したので、先日来、きょうまで 5 回に分けて、ブログサイト "Ted's Archives" に改めて連載した[こちらでご覧になれる。第 2 回以後へは、ページ末近くの「次の投稿」をクリックして、順次移れる]。

 どちらの作品についても、ウェブサイトに掲載するにあたり、ヒロインに何と古めかしい言葉遣いをさせたものかと、われながら驚いた。「夏空に輝く星」の方は、「ウェブ版への序文」に、「いま読み返してみると、私が菊池宏子の話しぶりを、漱石の小説に出てくる明治時代の成人女性のもののように書いているのが滑稽である。しかし、この点は、私が当時そのような話し方をする女生徒を理想的と思っていたのであろう記念として、変更しないでおいた」と書いて、そのまま掲載した。他方、「逍遥試し」については、2006 年に掲載したときの注に、「[ヒロインの]ケートの話し方が『てよ・だわ式』になっていた部分は、1950 年代にしても古風過ぎると思われたので、書き換えた」としている。

 これらのことにきわめて深い関係のある書評を、たまたま、けさの『朝日新聞』で読んだ。それは、中村桃子著『翻訳がつくる日本語:ヒロインは「女ことば」』についての三浦しをんの書評である。評者は、この本の特徴を、「日本語への翻訳の際、なぜ、『女性』『気さくさ』『黒人』といった性別、性質、人種を強調するような表現が取られてきたのか、その変遷をたどり、分析研究した」もの、と述べている。続いて、「日本語および日本語を使っている人々に、翻訳が与えた影響」という観点が興味深いとして、「女ことば」を使うと、「話者の性別」を簡単に明確化できる反面、「リアル」な表現とはいえないことや、実際にはあまり使われていない「女ことば」を、評者自身もなぜ無意識に書いてしまうかといえば、翻訳物からの影響もあって、「女性は女ことばを使うはず」という「錯覚・幻想」が染みついているからだろうことを述べている。

 そういえば、私は上記の小説を書く以前に翻訳物をより多く読んでいた。その影響があったのだろうか。中学 3 年生のときに初めて岩波文庫で読んだ翻訳物は、マーク・トウェーンの『トム・ソーヤーの冒険』(石田英二訳)であり、高校生になってからは、トルストイの『復活』(中村白葉訳)やスタンダールの『赤と黒』(桑原武夫・生島遼一訳)を読んでいた。それらの本のヒロインたちはどういう言葉を話していただろうかと思い、いまなお書棚にあるそれらの文庫本を引っ張り出してみる。

 『トム・ソーヤーの冒険』に登場する少女ベッキイは、
「ああ、どうして眠ったりなんか出来たんでしょう! もう、もう、二度と目が覚めなけりゃよかったのに! いいえ、いいえ、嘘なのよ、トムさん! そんな顔しないでちょうだい! もう二度といいませんわ。」(第32章)
という調子である。『復活』のカチューシャは、
「まあ、何をおっしゃいますの? いけませんわ! 駄目ですわ。」(第16章)
そして、『赤と黒』のレナール夫人は、
「そうよ、もうこうなると[命が]惜しくてしょうがないの! でもあなたを知ったことは、後悔してやしませんわ」(第16章)(引用文は、いずれも、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直した。)

 どうやら、わがヒロインたちの「てよ・だわ式」言葉の根源は翻訳物にあったようである。そうとなれば、古めかしい女性の話し言葉を使わせたことを遠慮する必要もない。「逍遥試し」の「てよ・だわ版」をも掲載しようか(既掲載版にも、一ヵ所だけ「じゃあ、仕方がないワ」を残してあったが)。

 ところで、外国語では話し言葉に性差がほとんどなさそうに思えるのだが、どうして翻訳物には性差がつけられて来たのだろうかという疑問が湧く。中村桃子さんの本を読まなければならないだろうか。

2013年10月11日金曜日

戦争する国へ進む危険と愚かさ (Danger and Stupidity of Proceeding to Heavily Armed Country)

[Te main text of this post is in Japanese only.]


マツバボタン。2013 年 9 月 28 日、ウォーキング途中で撮影。
Moss-rose Purslane. Photo was taken on my way of walking exercise on September 28, 2013.

戦争する国へ進む危険と愚かさ

 最近、ブログサイト「平和の浜辺:福泉・鳳地域『憲法9条の会』」に掲載した二つの記事に若干手を加え、以下にまとめて転載する。


死刑のおどしで戦場に駆り立てる「軍法会議」:自民党改憲案の危険

 今年4月のテレビ番組で、自民党の石破幹事長が、憲法「改正」によって国防軍が創設された場合、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で「死刑」「懲役300年」などと発言した(たとえばこちらの記事)。

 この「石破発言」が、自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月)に明記された「軍法会議」創設(同案9条の2第5項)の危険性を如実に示すものであることを、飯島滋明・名古屋学院大学准教授(憲法学)が指摘している(文献 1)。

 飯島さんは次のように分析している。——「軍の理論」からすれば、「敵前逃亡は死刑」といったおどしで隊員を無理やりに戦場に行かせる必要があり、そのために軍法会議が必要になる。(現憲法76条は、軍法会議のような特別裁判所は設置できない、としている。)軍法会議では、「軍の利益」が優先され、個人の生命や「基本的人権」は無視されるのである。

 飯島さんはまた、テレビ番組「太田光の私が総理大臣になったら」(2006年12月)で、太田氏から「政治家は戦場に行かない」と批判されたとき、いつも饒舌な石破氏が黙ったことにふれ、こうした石破氏の態度は、敗戦までの日本の権力者と同じように無責任ではないかと問いかけている。

 最後に飯島さんは、次のように訴えている。——海外での武力行使、国民の「徴兵」や「徴用」を可能にし、権力者は戦場に行かないのに、国民が戦場に行かなければ「死刑」を科する軍法会議を設置する自民党改憲案。そして、同じような内容の「日本維新の会」や「みんなの党」の憲法改正を私たちは認めるのか。主権者として適切な判断が求められる。——

文 献
  1. 「死刑の脅しで戦場に駆り立てる:自民・石破氏の軍法会議発言」、『しんぶん赤旗』(2013年8月13日)。


はからずも「日米『2+2』ガイドライン見直しへ」のニュースが戯画になる:元兵士の重い発言で

 2013 年 10 月 3 日、NHK 午後 7 時のニュースは、「日米の外務・防衛の閣僚協議が東京で開かれ、日米防衛協力の指針、いわゆるガイドラインの見直しに着手し、来年末までに作業を終えること…などを盛り込んだ共同文書を発表し」たことを伝えた。

 このニュースの中では、「日本では、安倍政権の下で集団的自衛権の行使を認めるかどうかや、自衛隊が敵の基地を攻撃できる能力、いわゆる敵基地攻撃能力の保有を巡り議論が始まってい」ること、「こうした状況を踏まえた日米の役割分担についても意見が交わされるものとみられ」ること、などが述べられた(NHK NEWS WEB「日米『2+2』ガイドライン見直しへ」)。

 これに続いて、「先の大戦で負傷や病気をした元兵士でつくる『日本傷痍[しょうい]軍人会』が、会員の高齢化[35 万人いた会員は 5000 人に減り、残った会員も平均年齢は 92 歳]で解散することにな」ったと報じられた。

 このニュースの中では、同会が「戦時中から戦後を通じた厳しい生活の体験を基に平和の大切さを訴え続け、7年前には体験を後世に伝える史料館[ しょうけい館]が東京都内に開設され」たことや、同館には「元兵士ら 140 人の証言映像が集められてい」ることが伝えられた。

 また、これらの元兵士の 1 人で、「戦後、中国で抑留中に右目を失明したという北海道恵庭市の武田豊さん(84)は、解散式のあと、『解散するのは、日本が再び戦争をせず、新たな傷痍軍人を出さずに済んだからで、うれしい気持ちだ。…』と話してい」たことが紹介された(NHK NEWS WEB「『日本傷痍軍人会』が解散へ」)。この NHK NEWS WEB 記事には記録されていないが、武田さんは「戦争は絶対にしてはいけない」というような発言もしていた。

 後者のニュースの中の、戦争を嫌ほど体験した元兵士の重い言葉には、はからずも、前者のニュースの中の、戦争を知らない日本の政治家たちの計画の軽々しさを浮き立たせ、これを戯画化するような効果があったように思われた。「憲法9条を守り生かし、戦争は絶対にしてはいけない」の声を、もっともっと広めなければならない。

2013年10月9日水曜日

漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」7 ("Detachment" Advocated for Arts by the Hero in Soseki's Kusamakura -7-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


ウキツリボク(アオイ科)、別名アブチロン・チロリアンランプ。
ウォーキング途中で、2013 年 9 月 25 日撮影。
Trailing Abutilon. The photo was taken on my way of walking exercise on September 25, 2013.

漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」7

 本シリーズの第 6 回では、夏目漱石の『草枕』の第九章で、主人公と、彼の部屋へ話しに来た宿の女、那美の間で「非人情」の言葉が何度も交わされるとともに、主人公が非人情の芸術製作を離れて、非人情の体験を積んでいることを述べた。

 第九章はなお続く。地震の影響で、「岩の凹みに湛えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍(ぬる)く揺(うご)いている」ところへ、「落ちついて影をひたしていた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする」のを主人公は面白いという。那美が「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」といい、「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」と会話が展開する。会話の終りに「鏡の池」の話が出て、那美は「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」という。

 第十章で、主人公は絵の具箱を持って鏡の池へ行ってみる。そこで、前にも会った馬子の源兵衛に出会い、志保田の昔の嬢様がこの池に身を投げたこと、志保田の家には代々精神病者が出ることなどを聞く。源兵衛が去ったあと、主人公は絵を描こうとし、水の中の影を描くことを考える。「影だけ眺めていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。」そのとき、「緑りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然(そぜん)として織り出されたる女の顔」があって驚く。主人公が思わず飛び上がると、「女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。」

 第十一章で、主人公は観海寺の石段を上って、和尚を訪ねる。修業の話題から、和尚は、「志保田の御那美さんも、嫁に入(い)って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳のわかった女になったじゃて」と聞かせてくれる。(つづく予定)

2013年10月7日月曜日

トキワマンサクの戻り咲き (Re-blooming of Chinese Fringe Flowers)


 昨日ときょう、当地では最高気温が 32 °C ほどもあり、まだ、夏のような暑さである。それでも、鳳公園ではトキワマンサクの戻り咲きが秋を告げていた(写真)。他方、キンモクセイの開花は遅れているようだ。

Yesterday and today, the highest temperature here was around 32 ​​degrees centigrade, and it is still like the summer. However, second blooming of Chinese fringe flowers in Ōtori Park was telling the coming of the fall (see photo). On the other hand, flowering of sweet osmanthus seems to be delayed this year.

2013年10月5日土曜日

シュウメイギク (Chinese Anemone)


 春に植えたシュウメイギク(秋明菊)が花を咲かせた。この植物は、キンポウゲ科の一種。別名、キブネギク(貴船菊)。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間。

Chinese anemone (also known as Japanese anemone, thimbleweed, or windflower; botanical name, Anemone hupehensis) is a species of flowering herbaceous perennials in the Ranunculaceae family. The photo was taken in my yard on October 5, 2013.

2013年10月3日木曜日

バラが秋の見頃 (Roses in Full Bloom of Autumn Season)


 近くの中の池公園でバラが秋の見頃を迎えている。近くでいろいろなバラを春と秋に楽しめるようになったのは嬉しい。しかし、この公園のバラは、人家との境界のコンクリート塀の前に横一列に植えられていて、全体の美しい風景を撮影し難い。また、大きなバラ園のように品種名を書いた札が立っていないのも残念である。

Roses are now in full bloom of the autumn season in Nakanoike Park nearby. It is nice that it has become possible for me to enjoy varieties of rose flowers near my house in spring and autumn. However, it is difficult to take the picture of the entire landscape of full bloom here because the roses are planted in a narrow row, in front of the concrete fence. It is also a pity that there is no name plate showing each kind of roses as found in large rose gardens.


2013年10月1日火曜日

安倍政権批判二題 (Two Criticism of Abe Administration)

[Te main text of this post is in Japanese only.]


コスモス。2013 年 9 月 24 日、ウォーキング途中で撮影。
Cosmos. Photo was taken on my way of walking exercise on September 24, 2013.

安倍政権批判二題

 最近、ブログサイト「平和の浜辺:福泉・鳳地域『憲法9条の会』」に掲載した二つの記事に若干手を加え、以下にまとめて転載する。


ナチスと安倍政権の類似:赤川次郎さんが指摘

 『図書』誌、2013年10月号 p. 48 に掲載の「禁じられた大人の遊び」というエッセイで、作家の赤川次郎さんが、「ナチスの手口に学べという麻生副首相の発言は、原発事故に匹敵する『大惨事』」と呼んで、ナチスと安倍政権の類似性を指摘し、安倍政権を鋭く批判している。

 赤川さんは、まず、ナチスの占領下のフランスで作られたナチスに協力的なヴィシー政権が、フランスの国是「自由・平等・博愛」に替えて「労働・家庭・祖国」をフランスの目標にしたが、このヴィシー政権の三つの柱は、そのまま安倍政権の目指す「美しい日本」に重なる、と述べている。

 次に赤川さんは、ヒトラーが経済的苦境への人々の不満を吸収して人気を高め、暴力への恐怖で人々を黙らせた点でも、「アベノミクス」という内容のない言葉で支持を受けた安倍政権はよく似ているとし、「人々を黙らせる」を思わせる、選挙演説中のプラカード没収事件についても述べている。

 上記の事件について、インターネットで検索してみると、2013年7月14日付け『東京新聞』朝刊「こちら特報部:ニュースの追跡」欄の「首相の考えを聞けないの? 参院選演説で聴衆のボード没収」と題する記事で報道されていたことが分った。その記事のリード部分は次の通り。
「原発廃炉に賛成?反対?」。安倍晋三首相の街頭演説で、女性(40)がこんな質問ボードを掲げようとして、没収された。掲げる前に、自民党スタッフや警察官を名乗る男性4人に取り上げられた。この様子の動画はインターネットで公開され、「言論封殺か」と疑問の声が噴出する騒ぎになっている。[記事全文はこちらに引用されている。]
この事件は「安倍政権の素顔をさらした出来事として、もっと問題にされるべきだった」と、赤川さんは述べ、「思想・信条の自由」を警察が自ら否定したもの、と批判している。

 赤川さんは最後に、「汚染水の膨大な流出に何の手も打てずにいる原発事故への無責任な」姿勢の安倍政権が、「この現実を無視して他国へ原発を売り込むのは正に『禁じられた遊び』」と、厳しく非難している。

 ここで、赤川さんのエッセイの題名を思い出してほしい。そして、エッセイの前半に、ルネ・クレマン監督の代表的映画『禁じられた遊び』のブルーレイ版には、「存在すら知らなかった別のオープニングとエンディングが収録されていて驚かされた」という話があったことを付記して初めて、読者には、題名から結語までのつながりを理解していただけるだろう。——推理小説家のエッセイを推理小説風に紹介してみた。


「積極的平和」のはき違え

 安倍首相が先日、アメリカの保守系のシンクタンク「ハドソン研究所」が開いた会合で英語で演説し、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の見直しに理解を求めた上で、「積極的平和主義」の立場からアメリカと連携して世界の平和と安定に貢献していく決意を示したことが報道された( 9月26日付け NHK ニュース「首相 『積極的平和主義』で世界に貢献」など)。

 報道によれば、首相のいう「積極的平和主義」とは、わが国が集団的自衛権を容認し、アメリカとの軍事的連携を強めていくことである。このような、武力に頼る政策は、「平和主義」の名に値しないのではないだろうか。

 平和学が専門の立命館大学名誉教授・安齋育郎さんの「今、『平和』はどうとらえられているか?」という説明によれば、「戦争のない状態」という意味での平和は、「消極的平和」と呼ばれ、こんにちでは、「平和」の概念はもっと広くとらえられ、「構造的暴力のない状態」を「積極的平和」と位置づけるようになっているということである。そして、「構造的暴力」については,次のように説明されている。

 ノルウェー出身の平和研究者であるヨハン・ガルトゥング博士は、人間の能力が全面的に開花するのをさまたげている原因を「暴力」と呼び、それが、社会のありように根ざしている場合には、「構造的暴力」と呼んだ。飢餓・貧困・社会的差別・不公正・環境破壊・差別・教育や医療政策の遅れなどによって人間の能力の開花が妨げられるならば、一人ひとりが豊かに自己実現を遂げることができない。

 現在、多くの平和研究者が、このような「自己実現が妨げられている状態」は「平和ではない」と考えるようになってきており、現代平和学は、「直接的暴力」だけでなく、「構造的暴力」のない社会、すなわち「積極的平和」の保たれる社会を実現するための実践的な研究だと考えられている。

 平和学のこのような「積極的平和」の意味からいえば、安倍首相の「積極的平和主義」発言は、「積極的平和」の意味のはき違えといわなければならい。

 なお、首相の発言は、マスコミがその危険な狙いを報道していない、日本国際フォーラムの提言「積極的平和主義と日米同盟のあり方 」(2009年10月)に基づいていることが、インターネット上で指摘されている。

 (安倍首相の「積極的平和」の誤用については、フェイスブックの友人 A・Y さんの指摘で気づかされた。ここに記して、感謝する。)