2007年10月27日土曜日

中性子・原子核衝突断面積:ボナー以後

 以下は、「湯川秀樹を研究する市民の会」2007年10月例会で私がした話の概要である。

フェッシュバッハ-ヴァイスコップ理論

 湯川博士が中間子論第一論文の中で議論に使用した中性子と原子核の衝突断面積に対するボナーの実験結果は、その後の研究に照らして、どの程度の信頼性があるかを簡単な方法で考えてみたい(ボナーの実験については、先に解説した [1])。

 ボナーの実験に使われた中性子の平均速度は 1.3×109、2×109、 3×109 cm/s の3通りであった。これらの速度は、中性子の運動のエネルギーに直すと、0.88、2.1、4.7 MeV になる。エネルギーが 0.5 ~10 MeV の中性子は速中性子と呼ばれるので、ボナーの実験領域は、速中性子領域内に該当する。

 速中性子の原子核との衝突断面積については、1949年にフェッシュバッハとヴァイスコップが理論を発表している [2]。それによれば、λ/(2π) << R (λはドブロイ波長、R は標的原子核の半径)のとき、中性子に対する吸収断面積σabs と散乱断面積σsc は、どちらも次の値に近づく。

  σabs = σsc = π[R + λ/(2π)]2       (1)

したがって、高エネルギー中性子に対する全断面積σt は、漸近近似として次のようになる([3], p. 283; [4], p. 456)。

  σt = σabs + σsc = 2π[R + λ/(2π)]2   (2)

フェッシュバッハ-ヴァイスコップ理論は、Fe、Ni、Ag、Pb についてバーシャルらが1948年に発表した実験 [5] とかなりよく一致している([3], pp. 284, 285; [4], p. 455)。したがって、 (2) 式が示す断面積とボナーの実験結果を比較すれば、ボナーの実験が、より新しい知見と比較してどうであるかが、おおよそ分かる。

 λ/(2π) は中性子エネルギー E を使って、また、原子核の半径は原子核の質量数 A を使って、それぞれ (3)、(4) 式ように表わされる ([4], pp. 456, 457)。

  λ/(2π) = 4.55 × 10-13/[E (MeV)]1/2 cm (3)

  R = 1.4 × 10-13A1/3 cm         (4)

これらの式を (2) 式に代入して、ボナーの実験したエネルギー範囲で、彼が使用した標的原子核 H、C、Pb に対する断面積の漸近理論値を求めた結果を Figure 1 に示す。正確な理論値はこの図の低エネルギー側で漸近理論値よりもやや小さくなる([3], p. 282)が、大体の傾向を見るには、この近似で十分であろう。Figure 2 は同じスケールでボナーの実験結果をプロットしたものである。

結 論

 二つの図を比較すると、ボナーの実験結果は、 H についてはその後の知見とかなりよく一致しているが、C と Pb については絶対値が小さ過ぎ、さらに Pb についてはエネルギー依存性の傾向も異なっている。

 この比較から、ボナーの実験で見出された断面積の傾向、したがってまた、湯川博士のそれについての議論は、真剣に受けとめる必要はないと考えられる。

 ボナーの実験は、1932年に中性子が発見されて間もなくの1934年に行われた先駆的なものだったが、それだけに、実験方法が不備だったと思われる。さらに、湯川博士の議論は、原子核と衝突した中性子が中間子を媒介として陽子に変わり、それが再度中間子を媒介として中性子に変わるという2段階過程を中性子散乱の主要過程と考えたものであるが、実験で測定される全断面積は、必ずしもこのような過程のみが寄与しているものではない。そのようなことが分かってきたのは、中間子論が発表されてからいくらか後のことだったのであろう。

付:影散乱

 (2) 式は、全断面積が、原子核と波動性によって広がった中性子を合わせた幾何学的断面積の2倍であることを示している。全断面積が幾何学的断面積より大きくなる理由は、幾何学的断面積内に入射する以外の中性子が干渉効果によって散乱することにある。この散乱は、原子核の後方で入射中性子波が R2/[λ/(2π)] 程度あるいはそれ以上の長さの影を作ることに対応しており、影散乱と呼ばれる([4], p. 458; [6], p. 324)。

 中性子・原子核衝突においての影散乱は、大阪大学の菊池正士と若槻哲雄が実験によって発見した。その実験は中性子の波動性を示す最初のものとして注目され、ベーテらによって解析された。また、後に原子核の光学模型として展開する重要な概念の原点でもあった [7]。

文 献

  1. 中間子第1論文が論じたボナーの実験, Ted's Coffeehouse 2 (2007年10月5日).
  2. H. Feshbach and V. F. Weisskopf, Phys. Rev. 76, 1550 (1949).
  3. E. Segrè, ed., Experimenatal Nuclear Physics Vol. 2 (John Wiley & Sons, 1953).
  4. R. D. Evans, The Atomic Nucleus (McGraw-Hill, 1955; reprint edition, Tata McGraw-Hill, 1976).
  5. H. H. Barshall, C. K. Bockelman and L. W. Seagondollar, Phys. Rev. 73, 659 (1948)
  6. J. M. Blatt and V. F. Weisskopf, Theoretical Nuclear Physics (John Wiley & Sons, 1952; Dover edition, 1991).
  7. 中井浩二, 原子核科学の半世紀:廃虚の日本から繁栄の日まで (1999).

2007年10月15日月曜日

あやかり名前

 昨年、「湯川秀樹を研究する市民の会」の I さんが子どもの名前を湯川博士にあやかって「秀樹」とつけた例が博士のノーベル賞受賞後に多かったかどうかを調べていた。しかし、生まれた子どもにつけられた名前の年毎のベストテンでは、よく分からないという結論だった。

 東野圭吾の推理小説には、「物理学者湯川」が活躍するシリーズがある。きょう(2007年10月15日)から毎週月曜日にフジ系で放映されるテレビドラマ「ガリレオ」は、そのシリーズ中の『探偵ガリレオ』[1] と『予知夢』[2] の2編をもとにしたものだそうだ。

 私は先に、同じシリーズ中の直木賞受賞作品『容疑者Xの献身』[3] を読んだ。この「湯川」の名は秀樹ではなく「学(まなぶ)」で、さらに、「湯川学」は理論物理学者ではなく、「天才的な応用物理学者」となっていたが、湯川博士を念頭においてつけた、一種のあやかり姓かと思われる。(『容疑者Xの献身』に対する私の書評は [4] を参照されたい。)

  1. 東野圭吾, 探偵ガリレオ (文春文庫, 2002).
  2. 同上, 予知夢 (文春文庫, 2003).
  3. 同上, 容疑者Xの献身 (文芸春秋, 2005).
  4. 「好敵手」Ted's Coffeehouse (2007年3月20日).

2007年10月5日金曜日

中間子第1論文が論じたボナーの実験

図はボナーの実験結果

 湯川博士は中間子論第1論文の第3章に、中性子衝突断面積についてのボナーの実験を引用し、その実験で見出された断面積のエネルギーと標的核原子番号に対する依存性が自説と矛盾しないことを述べている。そこで、ボナーの実験とはどういうものだったのかが気になるので、原論文をひもといて簡単に紹介する。

 ボナーの論文は "Collisions of Neutrons with Atomic Nuclei" の題名で、Physical Review Vol. 45, pp. 601-607 (1934) に掲載された。著者 T. W. Bonner は アメリカ・テキサス州ヒューストンの Rice Institute 所属となっている。

 実験は中性子断面積の速度依存性を調べる目的で行われたもので、ポロニウムからのアルファ粒子でベリリウム、ホウ素、フッ素を衝撃して得られる中性子が使用されている。断面積という述語は現在、英語では "cross section" であり、湯川博士もこれを使っているが、この論文では "target area" となっているところが面白い。

 まず、断面積の説明をしておこう。粒子 a を原子核 X にぶつけて、粒子 b が放出され、原子核が Y に変化したとする。この反応は

   a + X → b + Y

と書き表される。単位時間の入射粒子数が i 個、単位時間の放出粒子数が j 個、単位面積当たりの原子核 X の数がN だったとすれば、

   σ = j / (i N)

は、原子核1個当たりについての反応の起こりやすさの目安を与える。σは面積の元をもつので、この反応に対する X の断面積と呼ばれるのである。

 ボナーの実験では、a は中性子 n であり、標的としての固体物質の有無あるいは気体物質の圧力変化による中性子数の変化を観測しているので、二つの反応

   n + X → n + X   (1)
   n + X → X'     (2)

を合わせた断面積が測定されていると思われる。反応 (1) は入射中性子の向きが変えられる「散乱」であり、反応 (2) は入射中性子が原子核 X に取り込まれる「吸収」である。

 論文のアブストラクトは、実験の結果、次のことが分かったと報じている。水素の断面積は中性子速度の減少とともに、速やかに増大する。炭素と窒素の断面積も同様の傾向を示すが、水素ほど速い増大ではない。他方、鉛による中性子の吸収は速度の増大とともに増大する。この異常な吸収は、速い中性子ほど、原子核と多くの非弾性散乱をすると仮定することによって説明でき、宇宙線バーストもこの仮定をもとに説明できる。また、フッ素からの中性子はホウ素からのものより遅く、それによる反跳陽子の平均飛程は空気中で約2cmと推定される。この遅い中性子はベリリウムやホウ素からのものより、鉛に対して透過性が大きいことも分かった。(最後の文は、先に述べられている「鉛による中性子の吸収は速度の増大とともに増大する」と内容が重複している。)

 実験方法は、中性子がいろいろな気体中で陽子の反跳を経て作るイオン電流を測定するもので、その結果から、計算によって断面積を求めている。前年に発表したベリリウムからの中性子を使った実験 [T. W. Bonner, Phys. Rev. 43, 871 (1933)] では、ベリリウムからのガンマ線の影響が残っていたので、今回の実験では、それを完全に除いた、としている。

 中性子の発見者であるチャドウィックも、前年に水素の断面積を測定し [J. Chadwick, Proc. Roy. Soc. A142, 1 (1933)]、ホウ素からの中性子に対する値が、ベリリウムからのより速い中性子に対する値の約2倍であることを見出しており、ボナーの実験はこれを再確認したものでもある。

 実験方法を少し詳しく見れば、次の通りである。イオンチェンバーは長さ24cm、直径14cmの円筒形で、壁は厚み1cmの鉄からなる。イオン電流の測定には、補償用コンデンサーとリンデマン電位計を使用している。中性子は、スライド上のベリリウム、ホウ素またはフッ化カルシウム層を約7mCiのポロニウムからのアルファ粒子で衝撃して得ている。イオン電流はスライドを置いたときと、はずしたときに測定し、両者の差を中性子による電流としている。スライドから生じるガンマ線は、ベリリウム・スライドの場合には6cmの鉛でほとんど完全に吸収することができ、中性子はこれによって約40%減少するのみであった。ホウ素とフッ化カルシウムのスライドからのガンマ線を吸収するには、3cmの鉛で十分であった。

 ベリリウムからの中性子の速度は、チャドウィックによれば、2.8x109cm/sと 4x109cm/sの二つの主なグループ(前者の方が強度がより大)がある。この実験で使用したような厚いベリリウム層の場合には、多分、平均3x109cm/sであろう、としている。ホウ素からの中性子の平均速度は、チャドウィックが「2x109cm/s以下」としており、この上限値を使っている。フッ素からの中性子の平均速度は、この実験で1.3x109cm/sと推定している。

 湯川博士の議論に使われているこの実験の主要な結果は、表3として数値的に示されている。それを図示したのがページトップのイメージである。

 なお、これよりものちに発表された実験や理論を見ると、ボナーの実験の示す中性子断面積の傾向は必ずしも正しくはなく、したがって、これについての湯川博士の議論も有意義なものではなかったことになる(詳細は別に述べる予定)。

 (この記事は、湯川会2007年9月例会で話した内容に手を加えたものである。)

2007年10月2日火曜日

ポアンカレ予想

 昨夜午後8時から10時近くまでNHKハイビジョンで放映された「世紀の難問に挑んだ天才たち:宇宙の形のなぞに迫る」を見た。「単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3に同相である」というポアンカレ予想(Poincaré conjecture、1904年に提出)を解こうとして、この難問に取り憑かれてきた数学者たちの苦闘が興味深く描かれていた。

 ポアンカレ予想はのちにn次元に拡張され、n≧5 の場合がスティーヴン・スメールによって(1960年)、n=4 の場合がマイケル・フリードマンによって(1981年)証明されたこと、さらに、3次元ポアンカレ予想について、ウィリアム・サーストンが幾何化予想(3次元多様体の分類に関するもので、3次元ポアンカレ予想を含む)を出したこと、2002年から2003年にかけてロシアの数学者グリゴリー・ペレルマンが リッチ・フロー (Ricci flow) の理論を利用して、サーストンの幾何化予想を解決し、その結果としてポアンカレ予想を解決したことなどの専門的な内容も分かりやすく紹介されていた。

 世紀の難問を解き、2006年のフィールズ賞を受賞しながら辞退したペレルマンは、目下隠遁していて、何か新しい目標を見つけたとのみ、最近アメリカの数学者にもらしたとか。趣味はキノコ狩りだそうだ。

 (この記事を書くに当たっては、『ウィキペディア』の「ポアンカレ予想」の項によって、記憶の確認・追補を行った。)

 追記:上記テレビ番組の副題「宇宙の形のなぞに迫る」と同様な副題は、ポアンカレ予想について書かれた英書 [1] にも使われている。

  1. Donal O'Shea, The Poincare Conjecture: In Search of the Shape of the Universe (Walker & Company, 2007).